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March
今日もノイズ混じりのラジオだけが、時間の感覚を与えてくれる。
3月14日。ホワイトデー。
大した思い入れもないその日だが、先月の事を思い出すと、バレンタインと対になる今日も、何か仕出かしてくる可能性は充分あるだろう。
不安は当然ある。
だがあの日から、変化があったのも事実だ。
風呂に連れて行って貰えたのは、あの日だけではなかった。
相変わらず、毎日、とはいかなかったが、2、3日に1度くらいは、風呂に入れて貰えるようになった。
尤も、首輪は付けられたままだし、鎖の先がクローゼットのポールから芝原の手に変わっただけで、常に監視の目はあり自由に風呂場が使えたわけじゃない。
それでも俺には、大いなる進歩に思えた。
身綺麗にしていられるというのは、人間として認識されている。そんな風に感じられた。
爪を切って、髭を剃って、体を洗って。これだけの事でも、出来るのと出来ないのとでは、大違いだ。
けれど弊害もあった。
当たり前だが、風呂場には鏡がある。そこに写る姿を見て、予想はしていたものの愕然とした。
あの食生活では痩せただろうとは思っていたが、それ以上に疲弊っぷりが見て取れた。この数ヶ月で数年分、年を食ったかのようだ。
余り考えないようにはしていたが、現実として俺は監禁されている。
世間の方から見れば、行方不明といった扱いだろうか。
バンドはどうなっただろう。プライベートでまで親しくするような関係ではなかったから、とっくに次のメンバーを見付けたかもしれない。
こんなにギターに触れないのだって、どれくらい振りだろう。バンドを組むようになってからは、初めての事だ。
俺が住んでたアパートの家賃だとか光熱費だとかも、その辺も気になる。そろそろ口座の中身も、尽きる筈だけれど。
俺の生活が半径数メートルになろうとも、世界はそこで完結していない。
どんなにこの生活に慣れようとも、その現実は変わらない。
鏡の中の俺は、そういった諸々の現実を見せつけて、トドメに、こんな不健康そのものの体では、強引に脱出する事の不可能さも知らしめた。
芝原も決して体格はいい方ではないが、俺に比べればまだ健康体に見えた。
この頃はもう、なんだか色々と諦めてしまって、物凄く痛いとか苦しいとか、そういう事態にさえならなければいいやなんて、投げやりな事を考えている。脱走、という選択肢は、大分早い段階で消え失せていた。
いや、そもそもにして、未だにどこか、実感を持てないでいるのだろう。
鏡を見て、外の世界を思い出して、具体的な心配事をするようにはなったけれど、俺はまだなんとなく他人事のような、明日目が覚めたら何もかも元に戻っているような、そんな気持ちでいる。
だって余りにも現実味がない。
どうして芝原は、俺を監禁したんだ。
監禁だぞ。
ちょっとやそっとの決意で出来る事じゃない。
たとえば、たとえばだ。
俺の事を本当に恋人だなどと思い込んでいて、そして閉じ込めたのならば、もっと色々起きていてもいいんじゃないのか。
芝原の住居に監禁されている割に接する機会は短く、俺にはヤツの執着心のようなものが、いまいち見えていない。
もし攫ってでも欲しい相手がいて、恋仲になりたくて、人並みに欲情もすると言うのならば、とっくに手出ししていてもおかしくない。寧ろその方が自然な気さえする。かと言って芝原は、完全なプラトニックを望んでいるとも思えなかった。
思い返されるのはバレンタインの日。
芝原が見せた「恋人」らしい行動。
似たような事はあれからも何度か続けられているが、相変わらず同じようなラインに留まっていた。
手や口で扱かれて射精するだけ。
時々は尻にも指や舌を入れられる事はあったけれど、さほど危機感を感じるレベルには至らなかった。
それが余計に、芝原という人物像を曖昧にさせた。
断じてそうされたいわけではないけれど、さっさと俺を犯せば、あいつの目的のようなものも、少しは分かる事が出来るのに。
どうにも、俺が思う恋人だとか、意中の相手だとかいうものとの、隔たりを感じる。
まあ、あちこち頭のネジの飛んだ男だから、実際のところ、俺をどう思っているのかは知らないけれど。
でもなんとなく、分かった事もある。
正月だとか、バレンタインだとか。
案外、そういった行事を重視しているらしい事だ。
ただ実例はその2つしかないから、まだ決めつけるのは早い。
だからこそ今日だ。
今日、あいつがホワイトデーだなんだとはしゃいでいれば、その線はより濃厚になる。
そうと分かっていれば、俺も身構える事くらいは出来る。
心の準備くらいは、少しくらいは。
――――ああ、ご帰宅だ。
やはりどこか、足取りは軽やかな気がする。
一体何を仕込んでいるやら。
前回は軽い火傷で済んだけれど、あれ以上の負傷は出来ればご遠慮願いたい。
「ただいま、ミツル!」
「……おかえり」
クローゼットの扉を開くなり、やけにニコニコしてるものだから、ついつられて出迎えの挨拶などしてしまった。
途端に自己嫌悪に陥る。まるでこの環境を受け入れているみたいじゃないか。
良くない傾向だ。
「ただいま。ねえ、今日はなんの日だか知ってる?」
芝原は普段と少しだけ違う俺の反応を気にした様子もなく、ただただ上機嫌だ。連日の激務で目の下にクマをつくっておきながら、今にも鼻歌でも歌いだしそうだった。
いつもより力強く、俺は抱き締められていた。
さすがにもうこのくらいでは、抵抗する気にはならない。
「……ホワイトデー?」
俺は特に感情もなく、そう聞き返した。
「当たり! ミツルもちゃんと覚えててくれたんだね」
受け答えはしているものの、俺の声音は平坦なままだ。喜びもしないし、驚きもしない。
読み通り、ホワイトデーを堪能するつもりらしい。
が、例によって、俺には何も用意などない。
何を強要されるか、諦念と不安の中で俺は次の言葉を待つ。
「ホワイトデーってさ、普通はアメとかマシュマロとか、返すんだっけ?」
「さあ……そうなんじゃねえの」
アメもマシュマロも、それなら怪我をせずに済みそうだ。でも正月の時みたいに、無理に口に捻じ込まれればどれも危険はある。
「でもさあ、恋人同士なら、もう少し色っぽいものがいいかなあって」
「……じゃ、下着とか?」
なんか、そんな話、どこかで聞いた事がある。
そういうお返しもあるらしい。義理相手には使えねえなと、笑い話を誰かとした。
まさかそんな話を、監禁相手と興じる日が来るとは思っていなかった。
「下着? ミツルに下着なんて必要ないでしょ?」
ああ……なんだか、そんな他愛ない話が遠い昔のようだ。
下着なんて必要ない、ねえ。要するに裸でいろって事か。ああそうかよ。
未だに、話が通じているようで通じていない。
他愛ない笑い話なんて、芝原が相手では成立しないという事だ。
「……で? じゃあ、何をくれるわけ?」
俺は溜息混じりに問い掛ける。別に興味はなかったけれど、どっちがどっちに贈るのか判然としなかったが、これではっきりした。
そして、恐らくそれが碌でもないものである事も、なんとなく察した。
俺に必要なもの。恋人らしいもの。色っぽいもの。ホワイトデー。そしてこいつは案外、ベタな男だ。
「今日はさ、ミツルが俺の、舐めてよ。白いの、いっぱいかけてあげる」
ほらな。
そんな事だろうと思った。
安いAVかよ。
「嫌だって言ったら?」
言うだけはタダだ。ダメ元で言ってみる。
「ミツルはそんな酷い事言うの? 俺は今までずっと我慢してきたのに……ミツルはキスのひとつもしてくれないじゃない」
当たり前だろ、そう出かかったのを寸でのところで飲み込んだ。
震える唇を、結び直す。
怖かったんじゃない。怒りが、腹の底に湧き上がった。
「なに、それ……俺からすんの、待ってたってわけ……?」
「そうだよ? 俺だって無理強いはしたくないし」
無理強い?
何を言ってんだ、お前。
滅茶苦茶な言い分だ。それが監禁した人間の言い草かよ。
「じゃあ、俺が無理だ、出来ないって言えば引き下がるのかよ。大体、こ」
「ミツル」
パン、と乾いた音が鳴り響いた。
じんじんとした痛みが、頬を襲う。
……久し振りだ。
殴られたの。
俺たちの関係は、振り出しに戻る。
「なんでそんな我儘言うの? 俺ミツルのお願いいっぱい聞いたよね。布団も用意したしラジオもあげたし、トイレだって用意したよ? 最近はお風呂も入れてあげてるじゃない。なのにまだ我儘言うの?」
「それのどこが我儘だよ! てめえ、こっちが大人しくしてれば」
「ミツルッ!」
もう1度、頬を叩かれた。
「甘やかし過ぎたかな……今日も、あんまり無茶な事はさせないつもりだったけど」
俺は自分のとった態度を、早くも後悔していた。
混乱していた正月の時とは違う。
明らかに、芝原の目つきが変わった。完全に目が据わっている。クマがあるせいで、余計に病的だ。
そういう変化を、分かるようになっていた。
「ぃっ……」
今度は髪を掴まれた。
その手つきは余りにも無遠慮で、痛みに顔を顰める。
目の前で、芝原のもう一方の手がベルトを外し、ペニスを取り出した。
「咥えて。奥まで」
「い、いや、だ……」
萎えたものを、唇に押し当てられる。
いつかこんな日が来るかもしれない。そんな覚悟はしていた筈なのに、いざ実現してしまうと、なんの効力も持たなかった。
饐えた鼻をつく。
汗と尿の臭いがする。生温かい感触が唇に伝って、とてつもない嫌悪感を生む。俺は男になんて欲情したりしない。ひたすらに気持ちが悪い。
「俺はミツルの、沢山舐めてあげたでしょ? どうしてミツルはしてくれないの? 恋人でしょ?」
「ち、違うっ……」
口を開けたくないせいで、一言返すのが精一杯だ。それでも反論せずにはいられない。
「どうして今日のミツルはそんなに聞き分けがないのかな……何がいけなかったんだろう……やっぱりラジオかな……何か変な事でも聞いたとか……」
芝原は何やらぶつぶつと唱えている。
早口で、苛立っている事だけは分かった。
今更ながらに、何故俺はこんな目に遭っているのか、情けない気持ちになる。
「で? いつまで待たせるの、ミツル」
「ひ、」
そして突然、芝原の意識が俺へと戻った。みっともなく、喉が鳴った。
やっぱりこいつ、おかしい。
なんだよ。なんなんだよ!
「……ああ、そうか」
結局震えるばかりで行動に移せない俺に、芝原は口端を吊り上げた。
言うが早いか、鼻を摘まれる。
「ぅ……く、……っは、ぅぐッ……!」
鼻を塞がれてしまえば、もう口を開くしかない。酸欠直前になって口を開くと、すかさずペニスが捻じ込まれた。
途端に不快感が込み上げ吐き出そうとするも、芝原が低い声で恐ろしい事を言い出した。
「噛まないでね。そんな事したら、やり返すよ」
本気である事を伝えるには充分な声音で、そう告げた。
下手に反抗すれば、とんでもない目に遭う。本能的に察し、情けなくも怖気付く。
口の中が気持ち悪い。
他人の、同性の、性器を突っ込まれた。
生温かく、鼻腔には特有の蒸れた臭いが広がる。
でも芝原の脅し文句の効果は絶大で、僅かに歯が当たっただけで、俺の方が竦み上がっていた。
芝原は、尚も絶望的な台詞を吐いた。
「そうか、そうだったんだね……ミツルは、強引にされる方が好きだったんだ? ごめんね、気付かなくて」
「ひ、ぁう、……っ」
「なに? 聞こえないよ。喋ってる暇があったら、しっかり舐めて」
違う、その一言さえも、奪われた。
抵抗こそしないものの、口内のものをどうにも出来ずにいると、芝原の方から腰を使い始めた。ゆるゆると、数回抜き差ししただけですぐに勃起していく。
行為だけを見れば、俺も同じ事を芝原にされている。普段されている事を俺がする。ただそれだけの事。そう思い込ませようとしても、無駄だった。
「ぅ、うぐ、っぐ」
呻き声ばかりが漏れる。
酷い息苦しさのせいもあったが、やはり積極的に舐めるなど、到底出来なかった。
汚い。
気持ち悪い。
どうしたってそんな感情が先に立った。
目には涙が浮かんでいた。
「もっとやる気出してよ、ミツル。それとも、もっと酷くされたくて、わざと?」
「ぅ、ううぅ」
そんな事ある筈がない。
だが都合のいいようにしか解釈しない芝原は、遂に喉の奥まで犯し始めた。
「う、ぉおご、ぅう゛ッ……!」
嫌悪感でいっぱいだ。
それでも噛み付いたり、無理に吐き出したりする事は出来なかった。
苦しくて苦しくて辛くて、堪え切れなかった涙が頬を伝う。
喉を突かれ、心身共に襲う吐き気に、ただただ耐えるだけだった。
「あはは、ほら、やっぱり。舌使うのは下手だけど、喉では締めてくれるなんて、ミツルはフェラじゃなくてイラマがしたかったんだ?」
違う違う違う違う!!
心の中では叫ぶのに、口から出るのは呻き声ばかりだ。今やそれすらも、すっかり育ちきったペニスに塞がれ掻き消される。
ただ道具のように腰を振られ頭を揺すられ、唇も舌も喉も蹂躙される。
「泣くほど喜んでくれるなんて……っん、俺も、もう、出そうだよ……」
酸素不足で頭がくらくらして、熱かった顔から血の気が引いた。
出そうって、何が……?
分かっているけれど、分かりたくない。
…………嫌だ。
イヤだイヤだイヤだイヤだイヤだ……!!!
「ッ……飲んで、ミツル……」
芝原が息を詰め、口腔を満たすペニスが脈動した。
喉に飛沫が叩きつけられ、特有の青臭さが一気に嗅覚を支配する。
俺の口は依然として塞がれたままで、呼吸を求め、注がれたそれを嚥下するしかなかった。
食道から胃へ落ちる感触が、分かるようだった。
「がはっ……ぅ、……げほっ……」
ぬるりと、気色の悪くて仕方がなかったペニスが、漸く出ていった。
髪を掴んでいた手も離れ、項垂れると唾液と鼻水を垂らしながら噎せた。
俺は何を飲み込んだ?
残るのは、色濃い精の臭い。
……飲んだ?
何を?
………………俺は…………
「ッ……ぉ、げえぇッ……!!」
自分の身に起きた事を把握した途端、吐き気も蘇りその場に嘔吐していた。
今日も腹の中に碌なものは入っておらず、胃液混じりの精液を、ほぼそのまま吐いた。
吐いて吐いて、何も出なくなっても、臭いが消えなくて、尚も吐こうとした。
それを制止したのは芝原だ。
全く、自分本位な理由で。
「何やってるの? 駄目じゃない、吐いちゃったら」
そっと肩を抱く。その声は、間違っても、俺の体調を気遣ったわけではなかった。
ああ……そうだった。
こういうヤツだったじゃないか。
「ちゃんと舐めてよ。そうしたらもう1回、きちんと飲ませてあげるから」
なんでもない事のように言うと、今度は後頭部の髪を掴んで床に顔を押し付けた。
「ィ、ぁ……ッ……」
ごつ、と鈍い音がして、額をフローリングに強かぶつけてしまった。
その痛みより、顔面を吐瀉物の上に押し付けられた事の方がショックだった。
「早くね、ミツル。俺も忙しいんだ」
頭上からは冷酷な声が響く。あたかも雑巾のように、髪を掴んだ手が俺の顔を床に擦り付ける。
胃液と精液の混じった、酷い臭いがする。
最初に音を上げたのは、思考力だった。
この最悪な状況を直視する事を、放棄した。
精液も胃液も酷い臭いを放つのに、涙に臭いはないんだななんて、実にどうでもいい事を思った。
「舐めて」
そして俺はただ、言われるがまま、舌を伸ばした。
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