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April

 俺はこの数ヶ月で何度、妥協しただろう。  抵抗しては即座に報復され、すぐに怖気付いて芝原を受け入れる。  もっと、気概があった筈なのに。  こんなところに閉じ込められるまでは、仮にも、本気でプロになろうと思っていたのに。  自分が掲げた目標に向かうのと、理不尽に強いられる行為とは、確かに違うかもしれない。  でも、そんな考えは虚しい言い訳だ。  俺は自分が思っていたよりも、弱い人間だった。  そのくせ全てに順応してしまうには、我が強過ぎた。  どうせすぐに後悔すると分かっていて、盾突いて、そしてやはり後悔する。  大抵は強引に喉を犯される。  繰り返されるうちに嫌悪感は薄れても、生理的な吐き気や苦しさはどうしようもない。ここ最近に至っては、吐き癖もついたような気がする。些細な事でも、すぐに吐き出すようになった。  例によって碌に食べていないせいで殆ど胃液ばかりで、特有の臭いがクローゼット全体に染みついてしまったような錯覚に陥る。  尤も、まともに食べた上で吐いていたら臭いはもっと酷いだろうから、これはこれで助かっているのかもしれない。  この狭い密室も、大分暖かくなっていた。  気温が上昇すれば、臭いも強くなる。  もしもこのまま夏を迎えるような事があれば、ポリバケツに蓋をしただけの便所がどんな事になるか想像はしたくないし、それ以前に熱中症で死ぬかもしれない。  その頃にはまた、何か変わっているだろうか。  さすがに殺されはしないだろう……多分、だけれど。  電波の入りが悪いラジオからは、頻繁に桜の話題が挙がっている。  日頃さほど風流な生活をしていなかった俺でも、桜や花見に全く興味がないわけではない。  だから先日、ふと言ってみたのだ。 「桜が見たい」  芝原は、ただ黒い目をじっとこちらに向けていた。 「満開の桜の下で花見がしたい」  また我儘だなんだと殴られる覚悟はしていたが、芝原は静かに俺を見詰め、何やら思案しているようだった。  即座に却下されないという事は、見込みがあるという事だろうか。  外にさえ出られれば、打開策は見つかるかもしれない。  俺は思い切って、もう1度口を開いた。 「満開の桜の下で、青姦しようぜ?」  言いながら、思わず笑ってしまった。  勿論、そんな気は更々ない。  だが芝原は相変わらず、口を使うだけでセックスには及んでいないし、理由はどうやら俺の気が向くのを待っているらしい事から、切り出してみたわけだ。  駄目なら駄目で、叩かれて口に突っ込まれるだけだ。嫌だけれど、いつもの事。言うだけ言ってみる価値はあると思った。  そして芝原は真顔で、 「考えておく」  そう答えたのだった。  意外だった。  俺を3ヶ月以上も監禁しておいて、外がいいと言えば一考の余地くらいはあった事になる。  芝原は相変わらず独り善がりなぶっ飛んだ性格をしているが、俺を欺くような嘘はこれまでついていない。  という事は、本当に外出を考えているのだろうか。  いずれにせよ満開の桜など、そう長々と拝めるものではない。考えるにしても、精々1週間といったところだろう。  答えはじきに分かる。駄目なら次の手を考えるだけだ。  そうやって気楽に考えていると、いつもより早く帰宅したある日の夜、普段なら真っ直ぐクローゼットに向かう足音が、どこかへ寄り道をしていた。  トイレだろうか。微かに水の音もする。まあ、どうだっていいけれど。  ややして扉が開き光が差し込むと、芝原の手にはシンプルな花瓶があり、花を咲かせた桜の枝が飾られていた。  完全に、不意をつかれた。 「桜……」  思わず、声に出していた。  芝原は、桜の方を持ってくる事にしたらしい。  これで外出はなくなったという現実よりも、俺はまず、出まかせに等しい発言に従い、桜を用意した事に驚いていた。 「ごめんね、外には行けないけど。最近の花屋って、桜も売ってるんだね」  花瓶に飾られた枝は公園や川沿いの桜並木に比べたらとてもこじんまりとしたものだったが、花屋で調達しただけあってか、しっかりと可憐な花を咲かせていた。  芝原が、わざわざ花屋で花を買った。  調度品らしい調度品すらもない殺風景な部屋に、花を生ける習慣がない事は余りにも明白だった。  真新しい花瓶も、もしかしたらこの為に買ってきたのかもしれない。  室内には必要最低限のものしかなく、食事すら節約しているような男が、花如きに金を出すとは。  正直、面食らっていた。  殆ど思いつきみたいな発言で、芝原はここまで応えた。  予想外だ。 「あと、これも」  すっかり硬直していると、スーパーのビニール袋から、発泡酒を取り出した。  ここに連れて来られてこっち、アルコール類など、初めて目にした。 「宴会、とはいかないけど」  ついでに乾きものも幾つか出てきた。  これは……花見がしたいと言ったからか。  芝原なりの、妥協点なのかもしれない。  さすがに外に連れ出すにはリスクが高い。でも、俺の訴えも無下にはしたくない。そんなところだろうか。  だとすれば、だ。 「あとは? ヤんのか? ここで」  やはり俺の声は、途中で笑いを含むものになった。自嘲めいた声音で、芝原に問い掛ける。  貞操を賭けたわりには、呆気ない敗北だ。驚かされはしたものの、結局は、また俺だけが失う結果だ。  そう諦めたのに、芝原の反応は、今度も意表をついた。  小さく、首を横に振ったのだ。 「ここじゃあ青姦にはならないし。それは、またの機会で、いいよ」  草臥れた痩身の男が控えめに言うものだから、その姿はなんだかやたらと真摯なものに見えてしまった。  こいつは決して、謙虚な人間などではないのだ。  平気で俺を叩くし、無理矢理フェラさせるし、何よりクローゼットなんぞに監禁している男だ。  優しいわけがない。思いやりがあるわけがない。  だったらもっと、暴君でいろってんだ。  調子が狂う。  混乱する。  ここはクローゼットで、俺は裸で、鍵のついた首輪を嵌められて、鎖に繋がれていて。  それなのになんだか一瞬、尽くされている気がしてしまったのだ。  駄目だ。  それじゃ芝原の思惑通りだ。油断するな。 「どうぞ、食べて」 「あ、ああ……」  しかし腹が減っているのも事実だ。  いつもよりぎこちない手つきでジャーキーの袋を開け、プルタブを起こした。カシュ、と炭酸の小気味良い音が響く。  こんなものを食べるのは、どれくらい振りだろう。  日課にするほどの酒飲みではなかったけれど、食事と言うよりは嗜好品に近い食べ物を前に、何とも言えない気持ちになった。  懐かしいとか嬉しいとか、そんなシンプルなものではない。  硬い加工肉を噛んで、弱い酒を呷る。  それほど切に望んでいたものではないにせよ、口にしてしまえば、ほんの少し、安堵した。  ただこういうものを齧るにしては、余りにも静かだった。芝原は無言で、俺を見詰めるだけだ。 「……お前も飲めば」 「俺、酒は飲めないから」  もう1本残っていた未開封の缶を勧めると、即答された。  瞬時に、俺は真偽のほどを疑っていた。  普段の食事は、値引きシールの貼られた弁当や、大味な菓子パンや、冷め切った惣菜ばかりだ。それを花まで用意して、金額の面で言えば俺の目には充分「宴」に映った。  だからもしかして、飲めない事を言い訳にして、俺に食わせる為に、自分は遠慮しているのだろうかとも思えた。  おかしいよな。  これまでだって、俺にだけ食わせる事はあった。  その時は、帰宅時間がまちまちなこいつの事だから、どこかで食ってきたんだろうくらいにしか、思わなかったのに。 「少しでもいいから、飲めよ」 「いや、でも」 「ほら」  大体、目の前に人がいるっていうのに、こういうのは1人で黙々と飲むものじゃないだろう。  もう1本もさっさとプルタブを開けると、有無を言わさず芝原に押し付けた。 「……じゃあ」  観念したのか、芝原は漸く缶に口をつける。  相変わらず周囲は静かで、盛り上がりには欠ける。気を遣う義理もないので、これ以上の沈黙はスルーだ。  炭酸が、沁み渡っていく。  安価な発泡酒であるところが芝原らしいが、正解だったかもしれない。今の健康状態では、強い酒は飲めなかった事だろう。  350ml入りの缶は、すぐに空になった。殆ど減らなかった芝原の缶も返されたので、それも飲み干す。ツマミを齧りつつ無心で2本目を空ける頃には、ずっと小食だった俺の腹は呆気なく膨れていた。  床には2つの空き缶と、食い散らかされたジャーキー。 「は……」  また無意識のうちに、笑みが零れていた。  あり得ない考えが、頭を過ったせいだろう。  上手く制御出来れば、案外と悪くない暮らしも可能ではないのか。  そんなふざけた事を、一瞬考えてしまった。  冗談じゃない。一生この男に飼われるっていうのか。音楽で食っていこうなんて夢見がちな目標が叶わなかったとしても、今より酷い暮らしぶりなど、そうそうないだろう。ヒモですらない。服を着る自由さえもない。満足に飯も食えない。  こいつの事なんて、好きでもなんでもない。  芝原と死ぬまで一緒だなんて、反吐が出る。 「…………」  今日は殊更静かだった芝原は、いつの間にか壁を背に、舟を漕いでいた。 「しば……」  呼びかけようとして、やめた。  呼んで、どうする。  起こすのか? 布団で寝ろって? そんな義理があるか?  しかしこんなところで寝られちゃ邪魔だ。  じゃあやっぱり起こすか? また殴られるかもしれないのに?  結局俺は、何も出来なかった。  暫くすると遂に睡魔に屈したようで、完全に寝入ってしまった。  これも初めての事態だ。芝原が、クローゼットを開けたまま寝てしまった。  本当に全く飲めなかったのだろうか。それとも日頃の疲労か。或いは両方かもしれない。  午前様も珍しくない芝原が、今日は花屋の開いている時間に帰ってきた。こいつにとっては、決して普段通りの1日ではなかっただろう。  首輪の鍵は持ち歩いていないから、寝ている隙に脱出する事は難しい。それでも、まるきり無防備な芝原に、一発拳を食らわせるくらいは、出来た筈だった。  ほら、やればいい。  こっちは散々殴られてるんだ。  少しくらいやり返す権利はある筈だ。  仕返しにビビってどうする。これまでだって、全く俺に非がなくても理不尽に殴られたじゃないか。  だったら、一撃くらいお見舞いしてやればいい。  頭の中の俺は、動け、殴れ、と命令する。  だが俺は、少しも動く事が出来なかった。  取っ組み合いの喧嘩など到底出来ないほどに体力が落ちた事もある。単純に面倒臭いとも思う。ほろ酔いで、強ち悪い気分でない事も影響はしている。  でもそれ以前に、ちっともその気になれなかった。  何故だろうな。  珍しく殊勝な真似をされたからか。  こんな簡単な手で、俺は絆されてしまうのか。  芝原は一層ひっそりと眠っている。目の下にいつもクマをつくって、いつだって疲労が見える。  この言葉は使いたくはないが……言いようによっては、芝原は俺を養っている事になる。  どう見たって、そんな余裕ないくせに。  俺がいなけりゃ、無駄なウォークインクローゼットもいらないし、食費だって減る。睡眠時間だってもっと確保出来る。  やり口はさておき、それらを犠牲にしても、俺を手に入れたいらしい事に、改めて気付かされる。  つくづく、紙一重だ。  強引な尽くし方。  …………馬鹿みてえ。  最後まで俺は、芝原に何も出来なかった。  殴る事も、毛布をかける事も。布団で寝ろと、声をかける事も。  俺は食べかけのツマミを放置し、横にはならず座ったまま布団に包まる。  やはり夜は、まだ肌寒い。  何も見なかった事にしよう。何も感じなかった事にしよう。  そう言い聞かせるように、布団の端をぎゅっと握り、目を閉じた。  俺はただ隣で、出来るだけ静かに、眠る事しか出来なかった。

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