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June

 ここの暮らしが快適だった事など1日たりともないが、それにしてもここ最近の環境と言えば、酷くなる一方だった。  寒さはまだいい。布団はあったし、屋外に比べたら当然室内の方が暖かい。  だが、暑さはそうはいかない。  このところの気温の上昇は非常に堪えた。ラジオでは度々今年1番の暑さが報じられている。  まだ6月。6月でこれだ。来月、再来月と、もっと気温は上がる。これまでも懸念していた問題が、ここに来て一気に現実味を帯びてきた。 「あつ……」  寝返りを打つと汗で張り付いた髪が不快だ。  密閉されたクローゼットはサウナのようで、冬場暖かかったという事は、夏場は暑いという事に他ならない。  慢性的な食料不足に加えて、水分も完全に不足している。せめて水くらい自由に飲ませて欲しい。  時々、眠っているのか気を失っているのか、分からない事もあった。いつかそのまま、二度と目が覚めないのではないかという恐怖も、ひしひしと忍び寄る。  問題はそれだけではない。  端的に言えば臭いだ。  この時期ともなれば2、3日風呂に入れないだけで自分でも分かるほど体臭は強まるし、何よりもトイレ代わりに使っているバケツの悪臭と来たら、ひとたまりもない。  蓋をしていればまだしも、使用するには勿論開けなければならないわけで、その度に吐き気を催す異臭がクローゼットに広がる。実際に吐いた事もある。吐けば今度は吐瀉物の臭いも混じって、クローゼットは更に地獄になる。  換気も出来ず、かと言って垂れ流すわけにもいかず、俺の心身は着実に蝕まれつつあった。  解放しろとは言わないまでも、せめてこのクローゼットから抜け出したい。  俺の望みは、目下そればかりになっていた。  やがて聞こえた物音に、俺は今日も安堵する。  良かった、帰ってきた。  待ち侘びた鍵の開く音、ドアを開ける音、近付く足音、それらに一縷の希望を託す。  もう限界だ。 「芝原っ……!」  クローゼットが開くなり、俺の方から声をかけた。  こんな事も、もしかしたら初めてかもしれない。だがもう、事は緊急を要する。 「……どうしたの? そんな必死な顔して」  芝原の方も多少は意外だったようで、僅かに目を丸くさせ、返事がワンテンポ遅れた。  今夜を逃せば、また1日、この劣悪な密室に押し込められてしまう。1日で済めばまだいい。2日、もしかしたら3日、閉じ込められてしまうかもしれない。 「芝原、頼む……ここから出してくれ……」  情けない声で、俺は芝原に訴えた。  すうっと、芝原の目が冷たく、細くなった。 「出て? どこへ行こうって?」 「ち、違う、そうじゃないっ……前から言ってんだろ……この中、暑いし……臭いんだよ……」  暑さはともかく、臭いの原因を考えると、余りの恥ずかしさに弱々しい声は更に弱まった。  仰ぎ見る芝原の表情は変わらない。たった今帰宅したばかりの芝原よりも、俺の方が余程汗もかいていた。 「……じゃあ、どこならいいの?」  気まずい沈黙が暫し流れ、芝原はゆっくりと聞き返した。  聞く耳を持ってくれたのはいいが、改めてそう問われると答えに詰まった。 「あの……せめて、クローゼットからは出させてくれ……あと、水くらいは自由に飲ませて欲しい。それから……その……トイレも、普通に使いたい。別に……逃げたり、しないから」  俺は言い訳でも並べるかのように、妙にしどろもどろになりながら、思いつくままに喋った。  半年前なら、きっとこんな謙虚な態度は取れなかっただろう事を思うと、随分と疲弊してしまったものだ。 「…………折角、ミツルの為に用意したのになあ」  芝原の声音は芳しくない。ビクッと、肩が震えた。  そうだ、そう言えば俺を閉じ込める為に、わざわざ部屋を用意したのだと言っていた。俺はそれを、無駄にするような発言をしているのだ。  失敗したか。いや、でもこのままでは本当に死に兼ねない。 「うーん……そんなにツラい?」 「……ツラい」 「そっかあ。まあ確かに、開けると暑いし、臭うもんね」  一挙手一投足に怯える情けなさも、生死には替えられない。  芝原はまだ結論を出さない。だが思ったほど気分も害していないようだ。  ……これは、もうひと押しか。 「し、芝原……その……」 「うん?」 「部屋の中、もう少し自由に使えれば、俺の体調も、もう少しマシになるだろうから……そうしたら、俺……もっと、頑張れるから……」 「頑張る? 何を?」  こんな場所で、死ぬくらいならば。 「その……セックス、とか……」  ぼそぼそと、顔を真っ赤にして呟いた。  当然それだって不本意だ。不本意だが、クローゼットの中で真夏を迎えるより余程いい。  初めて最後まで及んだのは先月の事。以来芝原の多忙もあって、あれから今まで挿入には至っていない。  この際1度も2度も大差ない。セックスで死ぬ事はない。……多分、ない。  だからそのくらいのサービスは、してやってもいい。 「ふぅん……」  芝原の態度は、まだはっきりとしない。拒絶もしないが、頷きもしない。  この野郎、人が下手に出てるってのに…… 「ミツル」 「……なに」 「今も、喉、渇いてる?」 「……ああ、とっても」  余りにも当たり前な質問に、俺の声も刺々しくなる。  汗ばむほどの密室に10時間以上放置されて、500mlのペットボトルの水1本で満足出来ると思ったら大間違いだ。  なんでこんな住宅街で、飢餓状態に陥らなきゃならないんだ。  なるべく媚を売るつもりではいたけれど、喉の渇きやら飢えやら不快感やらで、一層短気になった俺はすぐに猫を被り切れなくなっていた。  しかし芝原はここに来て、唐突ににこりと微笑んだ。 「……そう。じゃあ頑張って貰おうかな」  言うなり、ズボンのファスナーに手をかけた。  フェラでもしろって? お安いご用だ。それで生活環境が向上するのなら。 「ん……」  なんの躊躇もなく、萎えたペニスを口に含んだ。  むわっと鼻をつく蒸れた臭いと、少しのしょっぱさが口に広がる。それでも今の俺より、清潔なものにさえ思えた。  今更これくらい、どうという事はない。なんなら喉まで咥えてやろうと、根元までしゃぶりついた時だった。 「飲んでね、全部」  別にいいけど。その時はそう思った。  精液の事だと思ったから。  だが、すぐに違うものを指していた事のだと知る事となる。 「んんんッ……!?」  口いっぱいに、臭いの強い、苦い液体が広がる。  咄嗟に吐き出しそうになると、両手でがっしりと頭を掴まれた。  そして念を押すように、芝原はもう1度同じ言葉を唱える。 「飲んで」  嫌悪感より先に、苦しさを覚えた。  吐く事は出来ない。ではこの苦しさから逃れるには。  答えはたったひとつ。  飲み干す事。  苦しさと屈辱で顔を真っ赤にしながら、少しずつ、その液体を飲み込んだ。 「んんっ……んぅぅ……っ」  けれど出されるペースに間に合わず、たちまち口の端から溢れ、終いには鼻からも漏れた。  口から鼻から盛大に漏らしながら、男の小便を俺は嚥下する。  最悪な気分だ。 「っは……、っ…………っ」 「あーあ、駄目じゃない、ミツル。こんなに零して」  酷い顔で噎せる俺に構う事なく、芝原は非道な言葉を投げつける。  直接口にしたせいで、臭いが離れない。鼻にも入ったせいで、涙まで出て来た。  こんな場所に閉じ込められて、着るものもなく、排泄はポリバケツ。遂には男に犯された。これ以上の屈辱など、もう出てこないと思っていた。  それは大きな間違いであった事を、俺は痛感する。 「まあ初めてだからね。今回は許してあげる」  漸く息苦しさが和らいでも、苛立ちは収まらない。  殴りかかる気力もなかった。ただ乾いた笑い声が、無意識に口をついた。 「ははっ……今回『は』? 次のチャンスもあるって事かよ……」  これからも同じ事を強いられるというのか。冗談じゃない。 「勿論そうだよ。これから上手に飲めるようになるといいね」  芝原は俺の皮肉に気付いていないのか敢えて気付かないふりをしているのか、全く意に介さず、まるで励ますように嘯く。  なんだだよ、おかしいだろ。  俺は恋人って事になってるんじゃないのか。 「お前、恋人にこんな事させる変態だったってわけかよ」  俺は恋人だから。こいつと恋人だから。その認識はとんでもない勘違いだけれど、でも一方で安心を得る言葉だった。  少々暴力的ではあるが、相手は恋人であるという関係性ならば、そこまで無体な事はしないだろうという安心。  その根底が、途端に揺らぐ。  もしかして勘違いしているのは、俺の方だったのか。 「心外だなぁ。俺はそんなおかしな事してないよ? 俺だってミツルのおしっこくらい飲めるし」  おかしくないって? これで? 馬鹿じゃねえの?  ……ああそうだ、こいつは身勝手な思い込みで拉致監禁に至った大馬鹿野郎だ。  こんなやつに常識や良識を求める方が、間違いってものだ。 「だからミツルも飲めるでしょ?」 「……嫌だって言ったら?」 「それなら部屋はそのまま」 「あのなっ……本気でぶっ倒れるぞ、今のままの生活続けてたら……」 「じゃあ飲んでよ」 「ふ……ふざけんな、そんなの……こ……恋人、だって、拒否する権利くらい」 「ないよ」 「はあ!?」 「ない」  芝原の顔から、また表情が消える。  疲労で病的な顔から色が消えると、思わずゾッとしてしまう。 「なんで……言いなりになんなきゃ……ならねえんだよ……」  怯えながらも、俺は問い掛けた。  ここで引けば、本当に生死に関わる。 「俺だって妥協してるじゃない。それに大体……養ってるのは、俺だよ?」  芝原は冷静に告げた。  滅茶苦茶な言い分だ。  でも芝原の中では、確固たる理由に違いなかった。  俺は恋人であり、養う対象であり、故に立場は芝原が上であるという事。  その構図が、完全に出来上がってしまっている。  そして俺はここから逃げ出せない限り、芝原のルールに従うしか、道はなかった。 「分かったら床、綺麗に舐めておいてね。ズボン濡れちゃったから、シャワー浴びてくるよ」  呆然と無意味に目を見開いていると、尚も芝原は追い討ちをかける。  尿がかかり変色したチノパンをわざとらしく見せつけて、汚れた床を舐めろと命じた。 「俺が戻るまでに片付いてなかったら、この話はなかった事にするよ。いいね、ミツル」  死ぬのは当然嫌だ。でもその代償は男として、脚を開くだけでなく、小便まで舐め啜る事を求められている。  そうまでしなきゃならないのか?  じゃあ死ぬか?  暑さと悪臭の中で、飢えて渇いて死ぬか?  こんな得体の知れない男の部屋で、俺は苦しんで死ぬのか? 「…………舐めたら、俺の要求は呑むんだな」 「いいよ。クローゼットのドアは開けておいてあげる。水ももう少しは置いてあげるよ」 「それだけ……?」 「うん。臭いも暑さも、それで軽減するだろ? なら、問題ないじゃない」  床に広がる小便を舐めても、得られるものはそれだけだ。  葛藤がなかったわけじゃない。  でも今の俺には、当座の命を繋ぐ事で精一杯だった。  少なくとも今日より、明日は楽になれる。  それは思いの外、非常に魅力的な餌だった。 「それじゃあ、早くね。床、染みちゃうから」  芝原は俺がどうするのか分かり切ったような口振りで再度告げると、浴室へと向かった。  死にたいほど惨めだった。  だがやはり、死ぬのは嫌だった。  恐る恐る、床に舌を這わせる。  同じ姿勢で、精液なら散々舐めた。吐瀉物の中に顔から突っ込んだ事もあった。だったら小便くらい、大した抵抗はない筈だ。  そう、その筈だ。  伸びてきた爪を、フローリングに立てる。その程度では傷ひとつつきはしない。  俺の中ではっきりと、恨みという名の反抗心が芽生えた瞬間だった。  絶対に許さない。  俺はこいつを、絶対に許さない。
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