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July

 暑さが本格的に厳しさを増してきた。  これが今もクローゼットの中だったならば、本当に危なかったかもしれない。  外は今日も雨が窓を叩いている。ただの梅雨にしては風が強い。台風でも近付いているんだろうか。そういえば雑音混じりのラジオでも、何か言っていた気がする。気温に対しては敏感になったが、外出しなくなったせいで、雨だとか晴れだとかという情報には、めっきり興味がなくなっている。  窓の向こうの景色は、今日のような悪天候でなくとも、大した成果には繋がらなかった。  このアパートと思しき建物は高台の上にあり、今いる部屋も数階に位置するフロアであり、周囲は閑静な住宅街らしい。分かるのはその程度だ。晴れた日の見晴らしは良く、けれど目立つ建造物はなく、日中も夜間も静かだ。家賃を吊り上げているのは、収納という意味では広々としたウォークインクローゼットのせいばかりではなさそうだ。多分立地も、悪くない。  現在地が分かったところで即、解決の糸口に繋がるわけじゃない。  それでも何も分からないよりは少しでも状況は把握しておきたいし、何よりそうやって観察して推察するくらいしか、時間を潰す手立てがない。  筋トレでもしていれば反撃への糧にもなるかもしれないが、この食糧事情で体力を削る事は己の寿命を縮め兼ねない。  それに密閉されたクローゼットの中に比べたらマシとは言っても、締め切った室内はじめじめとして蒸し暑い。やはり運動などもっての外だろう。  本当に、何もない部屋だ。改めてそう思う。  しかし幾らかは、俺の為に金をかけているのだろう。その事ならば、知っている。  だが許す事など、出来る筈はなかった。  滅茶苦茶な理由で拐われ、閉じ込められ、身も心も常にギリギリの生活を強いられている。  時折、挫けてしまいそうになる。  意地も矜持も羞恥も捨てて、人間らしくある事を、諦めてしまおうか。そんな風に考えてしまう事は、度々あった。  でも、それだけは駄目だ。  全てを芝原に委ねるなんて、余りにも馬鹿げている。  それは俺の敗北だ。  勝手におかしなルールのトラブルに巻き込まれた上に一方的に負けるだなんて、あんまりだ。  俺は心が折れそうになる度、芝原への憎しみを募らせた。  これに関しては芝原が課した「日課」も、俺の憎悪に一役買っている。  ドアの開く音、そして足音。  この部屋の内側で音を立てるのは、俺か、もう1人しかいない。  忌々しい、あの男。  天井の蛍光灯が点る。 「ただいま、ミツル」  クローゼットから出ても相変わらず電波の入りの悪いラジオが、大分前に午前0時を告げてから、漸く部屋の主のご帰宅だ。  表情にも姿勢にも疲労は色濃く浮かんでいるのに、そう言っては俺に微笑みかける。 「…………」  返事に応じる義理などない。  一時期は無駄に機嫌を損ねまいと、おかえりの一言を返していた時もあったが、このところの「日課」を思うと、その冴えない顔を一瞥するのが精々だった。 「また水、空っぽだね。喉、渇いてるでしょ?」  ほら来た。  じっとしていても汗ばむ室内では、2リットルの水でも充分ではない。空になったペットボトルを見て、芝原は嬉しそうだ。  これで口実がひとつ、増えるわけだ。 「じゃあ、飲ませてあげるね。口開けて」  分かりきっていた台詞に、なのに俺の肩はびくりと竦む。  正気を失えたら楽だろうなという気持ちと、芝原への激しい憎悪、そして絶対に復讐してやるという決意が、同時に沸き起こる。  だがまだ、ここで感情的になるわけにはいかない。  今の俺では、自分の命も守れない。 「……水が、いいんだけど」 「あとであげるよ。ほら早く、口」  かなり控えめな要求も、一蹴された。  躊躇いがちに、俺は渋々口を開く。  待ち構えていたかのように、ファスナーを下げた芝原の、蒸れたペニスが押し当てられる。  柔らかな性器の先端を咥えると、途端に臭いの強い液体が大量に注がれる。  セックスより、屈辱的な行為だった。  犯されるのも堪ったものじゃないが、性的な対象に見られるという事は、少なくとも1人の人間として扱われているという事でもある。それは芝原がこれまで、彼なりの基準ではあったものの、極端な強制に走らなかった事からも分かる。辛うじてでも、一応の尊厳は保たれていた。  だが、これはどうだ。排泄物を嚥下しろという、この行為。  芝原はこれも愛故だと言うが、俺の理解を遥かに超えている。 「ぅ……っ、……っぐ……」  凄まじい嫌悪感に涙目になりながら、苦々しい液体を飲み込んでいく。  何度経験しても気持ちが悪い。今すぐにでも吐き出したい衝動を、懸命に堪える。  ここで吐こうものなら、床を啜ってもう1度胃に収める事を強要されるだけだ。床に這い蹲って胃液の混じるものを延々と舐めるくらいならば、直接口に放尿された方が、最悪は最悪なりに、まだいい方の最悪だ。  それにここで大人しく従っておけば、さっきの言葉通り、新しい水はちゃんと貰える事を、学習済みだ。  全部を出し終えた芝原は、満足そうな顔でペニスを抜く。 「大分上手に飲めるようになったね」  僅かに零れて濡れた顎を拭いながら、芝原はご満悦だ。  芝原の激務ぶりを見るに、じっくりセックスに及べる時間というのは、かなり貴重だ。その点、小便を済ますだけならば、フェラで射精するよりも手短に終わる。 更にこの方法ならば、満足感も得られるという事らしく、芝原はこの行為が気に入っているようだ。  帰宅した芝原がほぼ毎日行うほど、この常識から逸脱した行動は習慣化していた。  日々繰り返されたからといって、こんな事、そう簡単に慣れるわけがない。  口腔や胃の不快感から逃れるように、俺は改めて要求を突き付ける。 「芝原、水……」 「ああ、そうだったね。待ってて」  床を汚さずに飲みきったからか、芝原は快く了承すると、空いたペットボトルを持って立ち上がった。  キッチンの方から、水の流れる音が聞こえる。  朝こそ冷蔵庫で冷やされた未開封のペットボトルが渡されるが、帰宅後や就寝前はこんなものだ。水道水を詰めて、芝原は戻る。  ミネラルウォーターしか受け付けないような高尚な人間でもないし、小便に比べたら水道水でも拝みたくなるほど有り難い存在だ。今はただ、さっき口にした汚ならしいものを、一刻でも早く灌いでしまいたい。  ややして芝原は、重くなったペットボトルを持って戻ってきた。  さっさと渡して欲しいのに、芝原は不自然な距離を保ち立ち止まった。 「……なに」  不穏な気配を察知し、眉を顰めて問いかけた。  芝原は無言で、傍らのポリバケツの蓋を唐突に開けた。途端に悪臭が充満したような錯覚に陥る。  この半年もの間、汚物の始末をしているのは全て芝原だが、排泄したものを見られるのは未だに耐え難い羞恥を覚える。  いつもは寝る間際だとか食事のあとだとかに片付けるそれの中身を、妙なタイミングで行うと真面目な顔をして俺に向き直った。 「今日もおしっこしかしてないんだね? どうしたの? 便秘?」  羞恥と憤りで、かあっと顔が熱くなる。  芝原にからかう意図が見えないだけに、余計に居た堪れない。 「体調悪いの?」 「ひ……っ」  今度は一気に距離を詰めたかと思うと、無遠慮に手が伸びて俺の腹に触れた。反射的に、身を竦めてしまう。  俺が病弱だったら、また状況は違っただろうか。頻繁に発熱でもしていたら、扱いは変わっていただろうか。残念ながら、体は頑丈な方だった。  けれど、連日の暑さと、積もり積もった疲労のせいで、食欲は殆どなかった。与えられる僅かな食料さえ残す事が多くなり、出るものもない、というのが正確なところだった。芝原と一緒にとる食事も、直前に水をがぶ飲みするせいで、余り胃に入らない。そのくらい、芝原だって分かっているのだと思っていた。  小便を飲ませる事に夢中で、俺の食が細くなっている事にも、気付いていないという事か。  それとも気付いていて、しらばっくれているのか。 「心配だなあ。ミツルが病気になったりしたら」  あくまで優しい手つきで腹を摩りながら、芝原はまるで気遣うような台詞を吐く。 「その時は、ちゃんと病院には連れてって貰えるわけ?」 「そうならないようにしたいって事だよ。病院だってタダじゃないんだ」  嫌味ったらしく問うと、意趣返しといった風でもなく、芝原はさらりと言った。  俺が逃げ出したり、医者に何か勘付かれる事より、金の心配だと?  つくづく、こいつが俺を大事にしているのか、粗末にしているのか、分からない。  ただやる事なす事、腹立たしい事ばかりだ。 「うーん……もう何日出てないっけ? 本当に、体壊すよ?」  食欲もない上に、水分だって足りていない。体を壊すような環境においている張本人のくせに、自分だって過労状態のくせに。金の心配をしているくせに。  頭に来る。 「いいからさっさと水寄越せよ」  言ってやりたい事は山ほどあったが、ぐっと堪えて当初の目的を果たそうと、話を元に戻そうとした。  だが、水を貰う、たったそれだけの願いすら、今日の芝原は聞き入れなかった。 「あ、そうだ、水!」 「何がだよ、もういい加減」 「これお腹に入れてあげる。そうすれば便秘も治るよね」 「……は? つか、別に便秘じゃ」 「ほら、俯せになって、お尻上げて」 「なっ……い、イヤっ……」 「早く。こんなところで水溢したら、怒るからね」  その言葉には、屈服するしかなかった。  床を汚せば、芝原は怒るだろう。怒った芝原は、何を仕出かすか分かったものじゃない。  情けないほど怯えながら、指示に従った。  芝原のやろうとしている事は分かる。このところは中を弄られる事も減っていたが、奥まで洗われた事は何度もあった。  でもそれはいずれも風呂場での出来事だ。吐き出した汚れも体も、すぐにシャワーで流す事が出来た。  ここはただの部屋だ。芝原が寝起きする洋室。  そんな場所で、排泄の準備をしようとしている。 「な、なあっ……せめて、風呂で」 「いいよ、ここで。バケツに出せばいいじゃない」  取りつく島もなく提案は却下され、長らく使っていなかった穴に堅いものが宛がわれた。 「ぃ、あ……ッ!」  注ぎ口を強引に捩じ込まれると、すぐに下腹部に冷たい感覚がじわりと広がった。 「ちゃんと締めて。漏れちゃう」  浅い位置から注入される水は、思うように奥へと入らない。時々ペットボトルを潰す音が聞こえ、芝原の指が穴に添えられ、調整されては、少しずつ腸内を逆流していく。  次第に強烈な排泄感が襲ってくる。 「待っ……芝原、苦しっ……」 「もう少し我慢して」 「ひっ……」  冷酷な一言で切り捨てると、ベコっと大きな音が聞こえ、腹が一気に膨れた。  水は2リットルなみなみと入っていたわけではないが、半分以上は注がれていた筈だ。  便意を伴う腹痛を誘発させるには充分過ぎるほどの量であり、もしかして芝原は全部入れるつもりなんだろうか。 「しば、はらぁっ……! もう、無理っ……もれ、る……」  水が欲しいとは言ったけれど、勿論こんな風に与えて欲しかったんじゃない。  嵩を増す水に冷やされる腹部とは反対に、額にはびっしょりと汗をかいていた。ぎゅるぎゅると、耳障りな音が響く。それがまた、俺の危機的な状態を知らしめている。 「ダメ? もう? 限界?」 「っ……!」  答える余裕すらもなくなって、俺は何度も頷いた。  こんな場所でぶち撒けるなんて、芝原に言われるまでもなく、絶対に嫌だ。 「そう。じゃあいいよ、どうぞ」 「ぅあっ……」  芝原は存外とあっさり、ペットボトルを引き抜いた。  それは喜ばしいが、どうぞ、と差し出されたのは、例のポリバケツだった。  このまま漏らすよりは、確かにいいのかもしれない。けれど羞恥心の面で言えば、どちらも選び難かった。  床に漏らせば、我慢出来なかった、仕方がなかったと、自分を慰める言い訳にはなる。  でも芝原の目の前で、バケツに跨って、自ら汚物を排出する事は、被害は減るかもしれないが、己の意思で動かなくてはならない分、抵抗も大きい。 「ねえ、ツラいんじゃないの? それともまだ余裕あった? もっと入れようか」 「だ、出すからっ……もう、これ以上は……!」  急かされて、頭を上げる。  悩む時間も与えては貰えない。尤も、俺の肉体的にも長々と考えている時間はなかった。  重い体を慎重に起こしながら、必死で自分自身に言い聞かせる。  床で漏らせば、芝原が激怒する事は確実だ。食べ物をを吐いた時や小便を零した時のように、這い蹲って舐めろと言い出すかもしれない。そんな事を命じられるくらいならば、今、少しだけ耐えた方がいいに決まっている。風呂場でなら何度も、腹の中まで洗われているのだし、今度だって大差ない。どうって事、ない。  間違ってもバケツを引っ繰り返さぬよう、しっかりと手で支えて腰を下ろす。  ちっとも嬉しくないが、何ヶ月もこんなものをトイレ代わりにさせられていたせいで、要領は得ていた。  恥ずかしさに耐えながらその姿勢をとる最中にも、尻穴はヒクヒクと窄まり、体温で温まった水をじわりと漏らす。一瞬たりとも気は抜けない。気を紛らせたいのに、集中していないといけない。自分の体に意識を向ければ向けるほどに、一層羞恥する。 「……見るなよ」  言うだけ言ってみる。 「どうして? 俺がミツルを扶養してるんだから、体調も把握しなきゃ。ペットだって、飼い主が体調管理するでしょ?」  ペットと同じ扱いかよ。やはり言うだけ無駄だった。  ただ今は芝原に食ってかかるだけの余力は微塵もなかった。  だと言うのに、とうに限界を迎えている筈なのに、こんな場所で、こんな距離で見られているせいで、思うように排泄が始まらない。 「あれ……? まだ? やっぱり具合悪いの? それとも水が足りない?」  芝原は淡々と観察しては、本当に飼い犬か飼い猫にでも言うように、事もなげな態度だ。  ここまで来て、時間をかけるだけ無意味な事は分かっている。泣き出したい気分になりながら、必死で腹に力を込めた。 「ぅ…………ッ」  そして遂に、ポリバケツに勢いよく液体が噴出された。びちゃびちゃと反響しては、恥ずかしさの余り全身が熱くなる。  幸いなのは感覚としても臭いとしても、出ているのは殆ど水だけだという事だ。  しかし当然、芝原は納得しない。 「んー……、水だけ? やっぱりもう少し入れないとダメだったんじゃないの?」 「だから、そもそも便秘じゃねえし……!」 「まあいいや。一旦全部出してみてよ」  人の気も知らないで、簡単に言ってくれる。  かと言って途中で終わらせる事も出来ない。俺は再度、諦めにも似た気持ちに助けられながら、再度息んだ。 「ぁ……っ? や、だ……っ」  どうせ水しか出ない、そう楽観的な思いだって芽生えていた。  それが少量で緩いながら、水とは違うものを排出し始めた。バケツの中で跳ねる音も、変化する。  見透かされたかのようなタイミングで、開き直りかけた心が、ここぞとばかりに羞恥を取り戻す。  全裸で、首輪を嵌められ、鎖で繋がれて。ただの洋室で、バケツに排泄する姿を、他人に見られる。憤るより先に、ただただ恥ずかしくて堪らない。  恥ずかしくて、情けなくて、惨めで、悔しくて、やはり、憎らしい。 「ああ、やっと出たね。良かった良かった。全部出たら片付けるから、そうしたらご飯にしよう」  揶揄でもしてくれたらまだ良かった。顔色ひとつ変えず、セックスの下準備でもなく、そのくせ強引に水を流し込んでおいて、平然としている。  俺ばっかりが、振り回されて、掻き乱されて。  この部屋に閉じ込められてからずっと、その関係性は変わらない。  季節は、こんなに変わったのに。  ……いつまでも、このまま甘んじていると思うなよ。 「芝原」 「うん?」 「…………覚えてろよ」 「へえ、そう」  精一杯の虚勢も、笑って往なされた。  それ以上は、何も言えなかった。  その事も、酷く苛立たしかった。

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