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August
フローリングに寝そべると、汗でベタついて不快だった。
カーテンの開かれた窓からは真夏の日差しが容赦なく降り注ぎ、全ての窓を閉め切った室内は非常に蒸す。
本当に、あのままクローゼットに閉じ込められていたら、どうなった事やら。
快適にはほど遠いが、これより悲惨な環境が容易に想像出来るだけに、多少はほっとしている。しんどいにはしんどいが、意識が朦朧とするような事態には陥っていない。
しかし直射日光に晒された熱気の篭る室内で汗は止まらず、窓を開けるか冷房を入れるかしろと訴えたら、芝原は安物の扇風機を買って来た。
まあ、そんなところだろうとは思った。懐事情ならば嫌というほど知っている。
これだけでも、あるとないとでは大違いだ。
仕方なく妥協して、小さなモーター音だけが響く部屋で、俺は芝原の帰りを待つ。
この頃ではラジオにも飽きて、BGMは扇風機の回る微かな音のみという事も多くなった。どうやら開けた場所に立地しているにも拘わらず、電波の入りが悪いという事は、建物自体が電波を妨害してしまっているのだろう。つくづくガッカリだ。
その他に、これといった進展はない。
建物の問題ならば窓際にでも立てば電波は拾えるかもしれないが、すぐ目の前に見える窓は、近くて遠い。
クローゼットから出られたと言っても、俺に自由はない。
鎖の長さは変わらず、俺の体はリビングに出ていると言うよりは、クローゼットから顔を出していると言った方が正確だ。
せめてこの家の中だけでも動ければ、もう少し気を紛らす事も出来るのに。
殺風景な部屋に観察するようなものもなく、窓の外には空しかなく、我ながらよく発狂しないと思う。
ただ、変化は常に欲していた。
静か過ぎる空間を打ち破る足音だとか、声だとか、人の気配だとか。
要するに、芝原の帰宅を、どこか心待ちにしている。
勿論帰ってきて貰わなくては俺の生死に直結し兼ねないという面もあるが、それより単純に、やっとこの退屈な時間が終わるのだという喜びが、確かにあった。
玄関から物音が聞こえたら、それが合図。
芝原が帰ってきた。
良かった。
嬉しい。
理由はともあれ、いつしかそんな風に思うようになっていた。
その一方で、やはり憎むべき相手であった。
芝原が仕出かした事、今現在も俺をどう扱っているか、忘れられるわけがない。
俺は芝原を絶対に許さないし、いつまでもこんな場所に監禁されているつもりもないし、復讐だって視野に入れている。
ただその気持ちを維持し続ける事は、簡単ではなかった。
住環境にしろ食糧事情にしろ、必要最低限しか与えられず、常に疲弊した状態であるという、肉体的な問題は大きい。正常でない状況で、正常な思考を保つのは至難だ。
そして肉体が弱まれば、当然精神も弱る。
そこへ来て、ムラのある芝原の態度だ。
少しくらい優しくされたところで、芝原の悪行は俺があいつを憎むには充分だ。それはもう覆らない。
でも揺らぐ。
憎んでいた事を、忘れている瞬間がある。
すぐに思い出す。
憎悪を倍増させると共に、一瞬でも忘却した自分自身に嫌悪する。
なのにまた、俺は忘れる。
どんな感情も、この部屋に居続けると安定しない。
この部屋に扇風機が持ち込まれて以降、芝原は俺に手を出していない。
疲れた顔で帰ってきては、少し喋って、弁当を食べて、軽くシャワーを浴びて、眠るだけ。
たったこれだけの行動では、新たな怒りが芽生える余地はない。
それどころか退屈は紛れ、空腹は満たされ、体は清められ、満足感すら覚えてしまう。
劣悪な待遇を受けたいわけではないが、これじゃいけない、こんな筈じゃない、とも思う。
相反する感覚が、頻繁に俺の中で鬩ぎ合う。
決着のつかないまま、眠る事も増えた。
絶対に芝原を許さない。
こいつをどう思うのか、どうしたいのか、問われれば即座にそうは答えるだろう。
でも…………
日が沈み、暗くなった部屋でひとり、今日もまたどうにもならない事を考える。
夜になってしまうと窓の外は月が見えるくらいで、昼間ほどの移り変わりはなく、余計に退屈だ。
日没から、まだ1時間くらいだろうか。
芝原が帰宅するにはまだ早い。
あんなヤツの顔など見たくもないが、早く帰ってこいとも思う。
そんな矛盾を、幾つも抱えている。
結局、目下の敵は、この退屈なのかもしれない。
「っ!」
眠気もなく、雑音の酷いラジオでも点けようかと手を伸ばした矢先、明かりの灯っていないリビングが、不意に色付いた。
僅かに遅れて、ドォン、と低い音が響く。
「花火……?」
窓の外には、炎で出来た花が咲いていた。
大きさといい音の遅れといい、打ち上げ会場は、そう近くではなさそうだ。
しかし見晴らしのいいこの部屋は、なかなかの特等席だった。
これまでの人生、花火大会も夏祭りも、人並み以上の興味を抱いた事などなかったが、俺の目は瞬時にして夜空に咲く眩い花に釘付けになった。
子供のように夢中になって、一心に空を見詰める。
色も形も様々に、濃紺の空を照らし、散る。
その景色をただ、じっと見ていた。
どれほど没頭していただろう。
打ち上げに合わせて響く音はさほど煩くはなかった筈なのに、俺に近付く聞き慣れた音は、全く耳に入らなかった。
パッとリビングの照明が灯され、俺は漸く、芝原の存在に気付いた。
「ただいま」
「お……おかえり」
手には、いつもより大きな買い物袋を下げて、芝原はそこに立っていた。
帰宅するとまず、エアコンのスイッチが押される。たちまち吹き出す涼風に、普段なら一息つくところだけれど、予想外に早い帰宅に俺は戸惑っていた。
確かに芝原は、とんでもない事の数々を俺にしている。
でも時間や回数で言えば、少し喋って、弁当を食べて、軽くシャワーを浴びて、眠るだけ、そんな事の方が圧倒的に多かった。
だからつい、身構えてしまう。
いつもと違う行動を取る芝原が、一体何を始めるのか。
「ただいま。本当はもう少し早く帰りたかったんだけど」
表情は特に上機嫌でも不機嫌でもなく、さしたる異変は見られない。
言いながらガサガサと、持ち帰った白いビニール袋を漁り出した。
「や……充分、早いだろ……いつももっと、遅いじゃん……」
意図が分からずに、俺の言葉はあからさまにしどろもどろだ。
芝原の顔と、手を突っ込んだビニール袋とを、ちらちらと交互に見やる。
「そうだけど。でもちょっと遅刻になっちゃったから」
「……何に?」
「花火」
芝原はそこで微笑んで、袋から缶ビールを取り出した。
よく冷えている事を物語る水滴つきのそれを差し出され、思わず目が丸くなった。
「この部屋、桜は見えないけど、花火は割とよく見えると思わない?」
「は……? 桜……? ……あっ……」
思い出した。
まさか花見の事を言っているのか。
花見がしたいと言ったら、芝原は1朶の桜を花屋で調達してきたのだった。
その時は桜の木の下で、とはいかなかったが、今回は、という事か……?
「ねっ、今日は頑張って仕事を早めに切り上げてきたんだ。夜店は回れないけど、涼しい部屋から見るのも、いいでしょ?」
「あ、ああ……」
缶ビールを受け取る。やはり冷たい。
そういえば、あの時は発泡酒だった。その辺も奮発したのだろうか。
「ふふ、いいね。初デートになるのかな、これ」
俺の隣に座った芝原は、嬉しそうに言った。
その発言には、同意も否定も出来ない。芝原がそう言うのなら、そういう事なのだろう。
ああ、そうだ、久し振りだったから、忘れていたけれど。
案外と、行事にマメな男だったな、こいつは。
「デートなら、勝負服のひとつでも着せて欲しいものだけどな」
エアコンが稼働し始めたといっても、室内はまだ暑い。熱気に負け、早々にビールのプルタブを引き起こしつつ、軽口を叩いた。
「花火鑑賞なら、やっぱり浴衣になるのかな」
「さあ? そうなんじゃねえの?」
「そうか……それもそうだよね……じゃあそれは、来年かな」
「…………」
来年。
その発言に、ぞっとした。
来年もこんな事が続いているだなんて、冗談じゃない。
知らず知らず、缶を握る手に力が入る。生じた苛立ちを隠すように、アルコールを煽った。
渇いた喉と空っぽの胃に、強い刺激が広がっていく。
「そうそう、晩ご飯もね、それっぽいものがいいかなって、焼きそばにしたんだ」
俺の気持ちなどまるで気にする様子もなく、芝原はいそいそとパック詰めの焼きそばを取り出す。珍しく値引きシールがついていない。芝原は芝原なりに、考えての行動らしい。
花火も、ビールも、焼きそばも、本当に俺の事を思ったわけではないのだろう。
芝原が、そういう事をしてみたかっただけの話だ。
夏の花火大会だなんて、いかにもデートの定番だものな。
いかにも、芝原が好みそうなシチュエーションじゃないか。
「まあ、まずは食べよう」
2人分の焼きそばと、芝原の分のお茶を並べて、いただきますと手を合わす。
花火だけが、窓の向こうで別世界みたいに咲いていた。
裸に首輪をつけて鎖で繋がれた俺の恰好を除けば、平穏と呼べる光景なのかもしれない。
夜空は花火で彩られ、室内だっていつもより早く「快適」が訪れた。単調な日常においての、ささやかなアクセントだ。
それもいい方向に出ている。
一度はそう考えた。
でも、思い直す。
だってこれは、デートらしい。
芝原が練ったプランらしい。
それじゃあ、いい事ばかりが、起きる筈はない。
空には花火が、咲いて、散る。
「嬉しいなあ、こうしてミツルとデートが出来るなんて。少しは花見の時の雪辱も果たせたよね」
「少しは、な」
適当な相槌を打つ。
調子を合わせれば勢いづくだけだし、反発しても仕返しされるだけだ。
気のない返事にも構わず、芝原は饒舌になる。
「まあ完璧とは呼べないけどさ……浴衣は来年の課題として……そうだね、その時こそ、青姦もしたいよね」
「……馬鹿じゃねーの」
「なんで? 花見の時はミツルがしたいって言ったのに、花火大会じゃダメだって言うの?」
それを言われると痛い。
外へ出たいが為の方便だったなど、芝原に言える筈がない。
完全に、言葉に詰まった。
「ミツル?」
「も、もう、喋ってねえで、お前もさっさと食えよ。腹減ってんだろ」
強引に話を切り上げ、芝原を黙らせる。
少しくらい食い下がるかと思われた芝原は、意外にもあっさりと、俺の言葉に従った。
「そうだね、さっさと食べちゃおう」
なんだか居心地が悪くて、ビールばかりが減っていく。
ブランクと空きっ腹のせいで、回るのが早い。
俺の胸中も知らず、芝原はシラフだというのに実にご機嫌だった。
「青姦は出来ないけど、食べたら、しようね、ミツル」
ほら、やっぱり。
予感はしていた。
顔色は、変わらなかった筈だ。
そんなような発言は、分かり切っていた。
「今日はいつもより時間もあるし……何しろデート、だからね。楽しもうね、ミツル」
静かに、憎悪が深まっていく。
最初から今に至るまで、芝原の言動は全てが独り善がりだ。見事なまでに、一貫している。
ならば俺の感情もただひとつ。
こいつを憎む他はないってものだ。
初めから今に至るまで、俺たちの関係は、寸分も変わっていないのだから。
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