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October
芝原の様子がおかしい。
いや、前々からおかしくはあったのだけれど、どうも最近の行動は、これまでと照らし合わせるとパターンが違うようだ。
今までの芝原は、金を使うという事を知らないような暮らしぶりだった。
部屋の中は殺風景で、着ているものだっていつもクタクタで、食事はスーパーの見切り品で、俺が食べられる分だってずっと満足ではなかった。
かと言って余所で散財している気配もなく、本人が言うように、その多くは家賃に充てているという話も現実味があった。
不必要、不相応に立派な住居と、幾ら節約しようと2人分に膨れた食費。負担は確実に増えている。
考えてみれば大体俺と芝原の接点は、当時の俺のバイト先であったコンビニに、芝原が客として訪れていた事だ。
つまり当時は、定価が基本のコンビニに通う程度の余裕はあったという事だ。
それがもう長い事、コンビニのビニール袋を提げて帰ってきたところは見ていない。
或いは何か良からぬ目的の為に貯金でもしているのか……まあとにかく、この部屋に帰宅する芝原は、本当に金を使わない男だった。
ところが近頃は、そうじゃない。
「ぅ……うぅ……」
呻き声だかなんだか分からないものが静かに響く。
喉が渇いた。
体も痛い。
季節は本格的に秋へと移り変わり、汗だくになるような事はなくなったけれど、日中まるまる飲まず食わずはさすがに堪える。
無駄に豪華な住環境以外、食と衣に関しては常に不足しているくらいで、インテリアに凝ったり娯楽に費やしたりする事はもっとなかった。
なのにここに来て、俺は随分と貢がれている。
拘束具やらバイブやらローターやら、要するにアダルトグッズというやつだ。
こんなものを買う金があるなら、もっとまともな飯でも食わせろってんだ。
食事内容が改善するどころか、そもそも食べる事が不可能な日も多くなった。
今日もそうだ。
両手は後ろ手に拘束され、両足首も一纏めに縛られている。どちらも適当な縄や紐などではなく、いかにもなレザーと金具で留められている。
口にも枷を嵌められた。
開口マスクと言うらしい。
口を開いた状態で円形の金属を噛まされ、後頭部のベルトで固定されている。
本当は浴槽の栓に似たゴムで塞がれてもいたが、これは暴れたら外れた。今は頬の辺りに取り付けられたボールチェーンから、鬱陶しくぶら下がっている。
手足は多少遊びがあるのでまだいいが、問題はマスクだ。口を大きく開け続けるというのは、なかなかにしんどい。
喉はカラカラで唾液ばかりが溢れて、上手く飲み込めずに垂れ流される。
この状態で芝原は袋入りの菓子パンを1つ置いていった。嫌がらせだろうか。
当然それを食べられる筈もなく、空腹と諸々の不快感に俺はじっと耐える。
小便はなんとか立ち上がって済ませたが、四苦八苦しながら外したバケツの蓋は元には戻せず、臭いも不快だった。
何よりこの状態ではラジオも点けられない。
芝原の帰宅時間は以前よりも早まってはいるが、何もせず待つには長過ぎる。
さて今日は10月の……何日だっただろう。
そろそろ年末も見えてきた。まさかこのまま1年を過ごすだなんて、まっぴらご免だ。
ああクソ、喉が痛い。
こんなもの、絶対に長時間装着していいものじゃない。
パンも水も、目の前にあるのに手をつけられない。それもイライラする。
日が落ちてそう経たずに、玄関のドアは開いた。
過去1番早い帰宅だったかもしれない。
にも拘わらず、俺の機嫌はかつてないほどに最悪だった。
精一杯の眼力を込めて、睨む。
「ただいまぁ……あはは、やっぱり似合うね、そういう恰好」
芝原はまるで意に介さず、出がけに施したままの拘束姿を見て、甚くご機嫌だ。
文句のひとつも言ってやりたいが、あーあーうーうー唸るだけで余計に喜ばれてしまう事は、今朝既に思い知っている。
とにかく拘束を解いて貰うのが先決だ。水も欲しいし、腹も減った。
「ただいま、ミツル」
なのに芝原は呑気なもので、両手で俺の頬を包んで、拘束された顔を楽しそうに至近距離で見詰めている。
この数ヶ月、うんざりするほど見た芝原の顔。
拉致だなんて大それた事には、到底向かない風貌だ。今でもそんな感想を持つ。
現実にそれは、起きたと言うのに。
芝原の指が、渇いた口腔に這った。
「ぅ、ぐ……」
舌を押され、じわりと唾液が分泌される。
しかし決して、喉は潤わない。
強い異物感に眉を顰めても、芝原はお構いなしだ。
「あれ……? パン、食べなかったの?」
しつこく舌を撫で回しつつ、白々しい事を訊く。
文句を言いたくても、指に噛みつきたくても、俺の顎は動かす事が出来ない。
「ああそうか、食べられなかったんだね」
芝原は至ってにこにこと、殺意を抱くような台詞を平然と吐く。
もしかして本当に、嫌がらせでも煽りでもなく、今その事実に気付いたのではないだろうかと思えるほど、悪びれた素振りはない。
芝原はパンを手に取った。
ここで拘束の方を解いてくれれば、もう少し株も上がるものを。
「じゃあ、食べさせてあげる」
概ね予想通り、芝原は俺の戒めを解く事なく、パンの入ったビニールを開封する。
特にこれといった香ばしい匂いもない。ピーナツバターの入ったコッペパン。パッケージだけなら、穴が空くほど見た。
芝原はそれを千切って、口に放り込む。
当然、噛めない。
「いいよ、食べて」
唾液を嚥下する事すらままならないのに、パサついたパンなど飲み込める筈がない。
精一杯目で訴えると、芝原は鼻を摘んだ。
「食べて」
「ぅ……あぁぅ……」
口呼吸に切り替えると舌の上の異物が、もぞもぞと転がった。
半端に喉を塞がれては取り除こうと舌を動かすが、嘲笑うかのようにただ口の中を移動するだけだった。
おかしそうに、芝原はそれを眺めている。
漸く、鼻を摘む指が離れた。
「食べられない? じゃあ水もあげる」
一頻り不自由する俺を見届けてから、芝原はペットボトルに手を伸ばす。
難なく開封すると、芝原は俺の顎を捉え上向かせる。まだパンの残る俺の口へ、温い水を流し込んだ。
「ぅえぇっ……」
大口を開けたまま流し込まれる水に、奇妙な悲鳴が漏れた。
それもすぐに塞がれる。
反射的に吐き出しかけると、すかさずゴム栓で口を覆われた。
「う、ぅうぅ」
「ほら、頑張って」
応援の言葉とは裏腹に、芝原はまたしても鼻を摘む。
息苦しさから逃れようと身を捩ると、無遠慮に髪を掴まれた。
「頑張って。飲み込んだら離してあげる」
そう言って、髪を掴む手に力が篭った。
衰弱し、拘束された状態では勝ち目がない。
俺は渋々、口の中のものと格闘を始めた。
幸いにして水に浸されたパンは原型を留めておらず、喉に痞える事はなさそうだ。
だがこれが、容易ではない。
呼吸も出来ず、口を閉じる事も出来ず、辛うじて喉を上下させて少しずつ水を飲み込んでいく事は、酷く難しい。
なかなか上手くいかない。
苦しい。
咳き込む事も出来ない。
逃げる事も。
抗う事も。
「ッ……――――!」
不意に、鼻を離された。
途端に空気を吸い込んでしまい、水が逆流して鼻に回る。
その痛みと、新たな息苦しさに悶えた。
大きく噎せて体を折る。下を向いた弾みで、口を塞ぐゴム栓も外れた。
それと同時に、水とパンくずの混じったものがぼたぼたと床に零れた。
喉が痛い。
「あーあ、零れちゃったね」
頭上から聞こえる芝原の声に、怒気は含まれていなかった。
けれど、すぐに顔を上げる事は出来なかった。
苦しかったのもある。
しかしそれ以上に、恐ろしかった。
芝原は飲み込めと言った。俺はそれを失敗した。
芝原に、口実を与えてしまった。
今までもこんな事はあった。
でも体の自由を奪われるような事は、滅多になかった。
あったとしても荷造りに使うような紐で、四肢を拘束される程度だ。
だが最近の芝原は、妙な道具をやたらと用意している。開口マスクだってそう。先日使われた、電池で動き続ける玩具もそう。
それらは俺の中で、かなりの違いを持っていた。
適当な紐で縛り上げるという行動は、分からないでもないからだ。
勿論芝原の言うような理由は到底理解出来ないが、逃げられては困る相手の自由を奪うのに、その辺の紐で縛る、という発想自体は、すんなりと思いつく行為ではある。まあこうなるよな、なんて、納得したり諦めたりする事も、多少は出来た。
ところが開口マスクだなんて、思いもよらない道具を持ち出されたら、正直それだけで怖気付くに値してしまう。
そして未知の苦痛に突き落とされる。
芝原がまた、得体の知れないものになる。
「ミツル」
いつまでも顔を上げられないでいると、再度芝原に髪を掴まれた。
かくんと、首が上に向く。
殆ど動けない俺の顔が、微かに強張る。
「汚れてるよ」
「っ……!」
芝原は失態を責めるでもなく顔を近づけると、残骸の散った顎を躊躇なく舐めた。
鈍い筈のラバー越しの感触に、総毛立つ。
痛いわけでも、苦しいわけでもない。
なのに、感じるのは、恐怖。
この瞬間、芝原は俺が最も理解の出来ない生き物に成り果てる。
それもその筈だ。
恋人だなんて、本来なら互いの同意が必須な関係を、一方的に押し付けられている。芝原だけが、信じ切っている。
だからあたかも恋人相手に取るような行動は、不気味で仕方がない。
早く離れてくれと念じていると、舌だけは漸く離れた。
だが未だ至近距離を保ったまま、芝原の指が俺の口へと再び侵入していた。
「やっぱりこのままじゃ、上手く飲み込めないんだね」
舌を撫でて、僅かに残ったパンくずを押し潰して、どこかうっとりとした表情で呟いた。
入り込んだ指が歯をなぞって、上顎を擽っても、俺にはどうする事も出来ない。
「……可哀想にね。馬鹿みたいに口開けて。ゴミ箱みたい」
その言い草に、怒りが湧いた。
でも一瞬だった。
嘲笑するにしては、随分と物悲しげな顔だった。
それに…………
「外してあげる。ちゃんとご飯にしよう、ミツル」
……なあ、もしかして。
憐れまれているのか、俺は。
可哀想。そんな言葉が、芝原の口から出るなんて。
どういう風の吹き回しなのか、吐き戻した事も、床を汚した事も咎められず、意外なほど呆気なく、後頭部の留め具が外されていく。
漸く解放されて、酷く怠い顎を何度か開閉してみるも、閉じ続けている事がツラくなっている。明日には回復しているといいのだけれど。
芝原は口だけでなく、手足の拘束も続けて解いた。長らく不自由だったこちらも、曲げ伸ばしして血を通わせる。
疲れた。
じっとしている、という状態も、疲労を伴う事を、これでもかと思い知る。
あちこちの関節を動かしていると、芝原は俺が吐いたものを雑巾で拭き取っていた。
俺はまた、舐め取れとでも命じられるのかと思っていて、面を食らう。
……こんな事、今までの芝原はしていただろうか。
確かにトイレの始末などはずっとしていたし、色々と汚したものを片付ける前に、俺が気を失ってしまった事もあった。だから吐瀉物の処理くらい今更抵抗はないだろうけれど、だがしかし……
やはり何かが、違う気がする。
金遣いほど明確ではなくとも、何か、こう、何かが。
「これ、洗ってくるから。そのパンもまだ食べるでしょ? いいよ、先に食べてて」
それも、変だ。
先に食べてて?
今まで1度だって、そんな台詞を吐いた事があっただろうか。
分かるのは、芝原に何らかの心境の変化があったらしい事だけだ。
でも、俺には見当もつかない。
だって俺は、芝原がどんな人間なのかを、知らない。
数ヶ月同じ部屋で過ごしただけで、何も知らないのだ。
この部屋の外で、どんな仕事をし、どんな人間と接し、どんな風に振る舞っているのかなんて。
芝原の態度の変化、その原因が俺でないのならお手上げだ。分かりようがない。
……俺が、この部屋で。
芝原に支配される、この部屋で。
唯一出来る事は、精神的な自衛だけだ。
けれど外の世界に影響され、それが反映されるのならば、俺は前もって身構える事も、先回りして機嫌を取る事も、出来やしない。
――――とばっちりじゃないか。
ふざけんなよ。
ここに来て、そりゃあねえだろ。
拉致して、監禁して、俺の意思なんてまるで無視で、そして今度は、俺とは無関係なところで心境の変化を起こすのか。
お前は俺をどこまでコケにするつもりだ。
自分勝手な上に、俺の知らない第三者に、影響されるって言うのか。
馬鹿にするのも、大概にしろ。
「あれ、食べてないの? お腹減ってるでしょ。今お湯沸かしてるから、食べ始めてよう。このところ寒くなってきたし、そろそろあったか――――……ぐ、ァ」
気付けば俺は、戻ってきた芝原に殴り掛かっていた。
立ち上がり、胸倉を掴み、腹に拳を叩き込む。
自分でも驚くほど俊敏な動作だった。
一連の動作を、俺は素早く完遂していた。
きっと力は碌に入っていない。常に食糧不足で、今日なんて1日殆ど飲まず食わずだ。狙いだって、いい加減なものだった。
それでも芝原は低く呻いて、その場に膝をついた。
腹を押さえて、蹲っている。
……簡単な事だった。
もっと早く、こうすれば良かった。
俺も弱ってはいるけれど、芝原だって強いわけじゃないんだ。
不意を突く事くらい、いつだって出来た。
「は……はは……ひどいな、ミツル」
未だ背を丸めたまま、芝原は弱々しく笑っている。
隙だらけだ。
追い討ちをかける事も考えた。
けれど一撃殴っただけで、とんでもない疲労感に見舞われていた。滑稽なほど、息が上がっている。
それにまだ、俺の首は、鎖に繋がれている。
俺が次の行動に移る前に、芝原はゆっくりと体を起こした。
「うん……まあ、なんで殴ったのか……今回は、訊かない事にするけどさ」
腹を摩りながら、今度も芝原は予期せぬ言葉を吐く。
……本気で言ってるのか?
急所を殴りつけておいて、不問?
おかしいだろ。
芝原でなくたって、理由のひつつも問い詰める場面だろうが。
なんで。
なんでだ。
芝原、お前、何を考えている……?
「ねえミツル、来月、さ。久し振りに休みが取れそうなんだ」
何も発しない俺に構わず、芝原は喋る。
俺の感情を全く気にしないところは芝原らしくてある意味安心するが、これはまたやけに話が飛躍したものだ。
休みなんていつ振りだろうか。
余りいい予感はしない。
「そうしたらミツル、天気が良ければ、たまには外でデート、しようか」
「…………は?」
俺は遂に固まった。
外?
外って、あの外か?
部屋の外……?
これまで頑なに拒否して、ベランダにさえ出さなかった芝原が?
…………おい、本当に、こいつに、何が。
「あ、お湯、沸いたね。コーヒー淹れてくるよ」
芝原はふらつきながら、キッチンへと消えてしまった。
……どういう事だ……?
逃げ出すチャンスか?
それとも、逃げない確証があるから?
第一なんで急に……?
このところ芝原の行動に違和感はあったが、とうとう決定打に遭遇した気分だ。
なんで? どうして?
そればかりが頭の中を駆け巡る。
芝原が湯気の立つマグカップを2つ持って戻ってきても、俺は問い質す事が出来なかった。
明らかに怒りを買うような真似をしたのに、芝原は怒らなかった。
俺の行動に芝原がどう反応を示すか、まるで分からなくなってしまった。
それはただ芝原を怒らせるよりも、ずっと恐ろしい事に感じられた。
少しは分かったかと思えば、すぐに得体の知れない存在へと変化してしまう。
芝原が何を考え、何を見据えているのか、俺はますます分からなくなる。
結局は、俺の反撃などまるでなかったかのように、その後も暫くは、芝原にただ従うだけの生活は、続いたのだった。
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