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December 1/4
室内に再び寒さが襲い始めた。
日中も毛布が手放せないようになり、俺は小さく包まって、相変わらず入りの悪いラジオを聴いていた。
あの日外出から戻っても、俺の日常に変化はなかった。
帰宅するなり首輪で繋がれ、服も奪われ、鎖は今も繋がっている。
多少の変化はといえば、最近の芝原は妙な玩具は使わなくなった事くらいだ。
単にネタが尽きたのか金が尽きたのか定かではないが、この部屋に拘束されている以上大差はない。
季節だけが、ゆっくりと変わっていく。
ラジオからは、このところクリスマスソングがよく流れている。
もう、そんな時期らしい。
……早く、ここを出ないと。
こんなところで、新たな1年を迎えたくはない。
だが、ただ逃亡すればいいわけでない事を、先日の外出で思い知った。
バイト先はとっくにクビになっているだろうし、俺の部屋だって残っているか分からない。頼れる友人もいない。1年近く音沙汰なかったバンドメンバーでさえ、例外ではなかった。余りプライベートでまで交流はなかったし、大体、今更どのツラ下げて会えって言うんだ。
今だって俺が悪いだなんてこれっぽっちも思ってはいないが、男に監禁されていました、なんて片っ端から弁明して回る気にも、到底なれなかった。
それに首尾良く理解が得られたとしても、俺の失った1年が戻ってくるわけではないのだ。
人間関係、社会的信頼、みんな滅茶苦茶だ。
音楽だって、この年になって再びやり直すのは絶望的だ。
バンドで食っていこうなんて土台叶わぬ夢だったのかもしれないけれど、まさかこんな形で終わるとは思ってもみなかった。
……本音を言ってしまえば、それに関しては、さほど悔しさはない。
そろそろ限界は感じていたし、ここらで大人しく定職にでも就こうか。そんな気持ちは、前々から存在していた。
1年間世間と隔絶され、ある意味で踏ん切りはついた。
メンバーや少ないながらに応援してくれたファンには申し訳ないけれど、思いの外後悔はしていなかった。
前向きに考えるのならば、下手に未練の残る結果でない事は、ある意味で救いだ。
しかし、だ。
音楽の道は諦めるとしても、当座のバイトくらいは目星がついていない事には、たちまち行き詰ってしまう。
「…………」
すっかり草臥れてしまったペラペラの紙を、俺は今日も捲る。
明るいうちに何度も目を通す。
先日の外出で入手したフリーペーパー。
主に見るのは、求人募集だ。
バイトで良ければ、募集自体は幾らでもある。
けれど体力は人並み以下で、住むところもない、となると一筋縄ではいかない。
住み込みで働けるところは大抵肉体労働がセットだし、力仕事を避けると、そもそも男の募集がなかったりする。
そうなると、あとは……
「……ホスト? 俺が?」
思わず笑いが込み上げた。
そんな自分、想像が出来ない。
でも残された仕事は、そういった所謂「夜の仕事」くらいなものだった。
この年にもなって突然始めるような仕事でもない。けれど他に選択肢もなさそうだ。
とりあえず住む場所と、生活費。それらを確保し、その上で少し金を溜めたら、改めて職探しをする。最も現実的なプランはそんなところだろうか。
こういった仕事ならば、多少の空白期間くらい詮索される事もないだろう。
バンド関連の知人にも、この手のバイトで食い繋いでいる人間はいたし、俺にもなんとかなるかもしれない。
この際ホストでもボーイでもなんでもいい。
とにかく目についたところから、連絡を入れてみるしかない。
だが問題はまだまだ山積している。
何しろ俺には通信手段がないのだ。
先日の外出も、服こそ自分のものを返されたが、携帯と財布は与えられなかった。まあ、携帯に関しては、恐らく使用料金未納で止まっている事だろうけれども。
……となると、外部との接触方法は、実際に自分の足で赴く他ないだろう。
芝原は携帯を持ち歩いてはいるけれど、この部屋に固定電話はないようだし、インターネット環境も見当たらない。
本当に、限りなく隔離された空間になっている。
……もういい加減、ここを出なくては。
日が陰り始め、読みづらくなりつつある広告を尚も眺める。
選り好み出来る立場でない事は分かっているし、専門誌でもないから掲載数も多くはないが、条件はいいに越した事はない。
小さな写真つきで紹介される店の様子、スタッフの顔、そんなものをまじまじと見詰めていた。
せめて、知り合いでもいればいいのだけれども。
こんな事なら、もう少し人脈を広げておけば良かった。
特段人見知りというわけではなくとも、積極的に交友関係を持つタイプではなかった。
いや、自覚している以上に排他的だったのかもしれない。何しろ「たった1年」連絡が途絶えただけで、頼れる相手が見つからないのだから。
あの時対バンしたバンドの、あのドラム、名前はなんだったっけ、どんな顔をしていたっけ。ボーイだったか、ホストだったか。もっとちゃんと、聞いておけば良かった。親しくなっておけば良かった。
その前にもいたよな。ギター……いやボーカルだったか。そんな仕事をしていた経験があるとか。客とのトラブル話を、聞きもしないのに饒舌に語っていた。
ああそれから、オールナイトイベントやった時のスタッフ……客だったか?
なんだかそっちの仕事がメインになってしまいそうだとかなんだとか、酔っぱらいながら笑い話にしていたっけ。
そういえばその店のオーナーだか誰だかも紹介されていた筈だ。俺より背の高い、どう見ても堅気ではない男で、肩やら腰やらやけにべたべたと抱きつかれて、酒臭い息でしつこく絡まれた記憶がある。
妙に気に入られて、どこまで本気だったのか、酔っ払いの戯言だったのか、うちで働けだのなんだのと、誘われたのだった。
当時の俺が相手にする筈もなく、適当にあしらって、それでお終いだ。
その判断自体は間違いではなかったと思う。
でももう少し、柔軟さを持っていたなら良かった。
あの頃なら、いくらでも交流の機会はつくれたのに。
横の繋がりが強いバンドだって、大勢いたのに。
なんで俺は、同じバンドのメンバーさえ、深く付き合おうとしなかったのだろう。
悔いてももう、遅いけれど。
暗がりの中、小さ過ぎて碌に判別の出来ない写真を見詰める。
誰かに似ているような気もするし、全くの別人のような気もする。
そんなものを眺めながら、冬の日は早くも落ちた。
「ねえミツル。クリスマスに、何か希望はある?」
相変わらずまともな時間に帰宅した芝原は、事もなげにそう切り出した。
こいつの中ではまだ、同棲中のカップルごっこは続行中らしい。
俺はそれに一瞬呆れてから、鼻で笑って答えた。
「夜景の見える高層階のレストランと高級なシャンパン。当然プレゼントも貰えるんだろうな? 年に1度のクリスマスだもんな、ハイブランド品を用意してくれるんだろ? 泊まる部屋は勿論スイートだよな?」
思いつく限りの豪華プラン。
芝原は律儀にも、本当に申し訳なさそうに眉を下げた。
「ごめんね、それはさすがに……予約も、もう間に合わないだろうし……」
何故こんな時だけ、そういう顔をするのか理解出来ない。
ただただ、こっちが居た堪れなくなるだけだ。
「冗談くらい分かれよ、馬鹿か」
俺も大概お人好しなのかもしれない。
ちょっと困った顔をされるだけで、気まずくなる。
「そ、そっか……」
芝原は露骨に安堵する。
変なヤツ。
杜撰なのか生真面目なのか、未だに分からない。
「あのねミツル。嫌じゃなかったら……クリスマスは、この部屋で過ごしても、いいかな」
次に出て来たのは、随分と殊勝な物言いだった。
嫌じゃなかったらだとか、いいかなだとか。まるで俺が嫌がれば考えを改めるような事を言う。
いつだって答えは用意されていたというのに。
「俺が外で過ごしたいって言ったら、考慮されんの?」
「それは……うん……でも、出来たら……ここで、お祝いしよう? ケーキくらいは、買ってくるから」
「…………」
歯切れが悪いながらも、芝原は俺の意見を無視しなかった。
俺は今も、こいつがどんなやつなのか、掴み兼ねているけれど。でもこのところ……いつからか芝原の様子が、変わっている事には、気付いていた。
一体何がきっかけだったのか。先月のデート? それとも帰宅が早まった頃? 実はもっと前から?
どんな心境の変化があったのか、俺には知る由もない。
「……部屋でいい。クリスマスに男2人で外出なんて、やってらんねえよ」
「わ、分かった」
少し迷って、俺はそう答えた。
外に出た方が、逃げるチャンスには恵まれる。
何故そう答えてしまったのか、俺自身、よく分からなかった。
ここを出てからの生活というものに未だ怯えがあったのか、或いは何か、未練のようなものでもあるのか。
……未練って。
こんな男、どうだっていい。二度と関わり合いなんて……いや。
ここまで関わっておいて、逃げて、終わり?
そうしたら芝原は?
俺をまた追うのか?
諦める? 知らんぷり?
俺の一生を滅茶苦茶にしておいて?
こいつへの制裁は、それだけ?
「あ、あっでもね、ミツル、少しくらいは、外も行こうよ。駅前、イルミネーション、綺麗だったから」
芝原は急いたように言葉を痞えながら、思いがけない台詞を付け足した。
へえ……外にも、行く気はあるんだ?
しかも駅前のイルミネーション。
ふぅん。
それはいい。
「…………ああ、楽しみにしているよ」
それは強ち、出任せではなかった。
その時が、勝負だ。
ノイズ混じりのラジオによると、本日はいよいよクリスマス・イヴらしい。
そうは言っても芝原は今日も仕事だ。絶対に早く帰ってくると、哀れなほど懸命に繰り返して出ていった。
確かにここ数日は、年末が近いからどうのこうのと、帰宅が遅くなる事は度々あった。それでも午前様が当然だった頃に比べれば、充分に早い。
念を押しただけあって、芝原はいつもの時刻より30分は早く帰ってきた。
手には、ホールケーキと思しき箱を提げて。
「ただいま!」
満面の笑みを浮かべてのご帰宅だ。
手にはケーキだけでなく、何かのボトルや、パック詰めの食品らしきものが入ったビニール袋も持っていた。
年甲斐もなく、子供のようにはしゃいでいる。そんな印象を受けた。
これもまた、言ってみれば芝原の新たな一面だった。
「……おかえり」
俺はと言えば、到底そんな笑顔にもなれず、ぶっきらぼうに応じるだけだ。
クリスマス、ね。
こいつは以前から、こういったシーズンイベントにはマメな男だった。それを考えればこの浮かれっぷりも頷ける。
それにしたって、俺も芝原も、もうクリスマスだなんだと騒ぐ年でもないだろうに。そりゃあまあ、彼女でもいればクリスマスくらいは……ああ、そうだった。芝原にとっては、その、彼女がいる、に限りなく等しい状態だった。
あちこち取り繕って、自分でも無茶だと分かっていて、いずれ破綻するのが見えているくせに、まだ恋人同士の振る舞いをしたいのか。
そう理解してしまえば、楽しそうに笑う芝原の姿が、とても痛々しいものに見えた。
コートを脱ぎ、台所からグラスやらフォークやらを持って戻った芝原は、至ってご機嫌だ。
「さあ、食べようか。今日はいっぱい買ってきたんだ」
「そのようで。あ、無理矢理口に突っ込むんじゃねえぞ」
「あ、ああ、うん」
無感情に警告すると、芝原は少しトーンダウンして返事をした。
まず心を過ったのは、違和感。
数々の前科を思えば、俺の発言も無理からぬものだろう。しかし言った直後、早まったかとも思ったのだ。余計な事を言っただろうかとか、気分を害しただろうかとか、思わず考えた。
なのに芝原は、幾らか苦笑がちになっただけで、呆気なく聞き入れた。
おかしい。
こんなヤツではなかった。
こんなに、下手に出るヤツじゃ、なかった筈だ。
謙ったり諂ったり、そんな事の出来る人間なら、大の男を襲い、攫い、あまつさえ監禁するなんて、極端な行動に出る筈がないのだ。
だからやっぱり、気のせいなんかじゃない。
どっちが元々の芝原なのかなんて、俺は知らない。関係もない。
ただどこかで、変わってしまった。
芝原は折り畳みの小さなテーブルを広げる。
普段の食事はパンや弁当が多くて、これを使う事も余りなかった。
小さなテーブルの上に、2人で食べるには少々大きなデコレーションケーキ。真っ白な生クリームで覆われ、真っ赤なイチゴがトッピングされ、メリークリスマスと書かれたチョコレートのプレートは、実にオーソドックスなものだった。
まずはそれをテーブルに載せ、その周りにオードブルを並べていく。こっちは2人で丁度いい量だったけれど、その時点でもうテーブルはいっぱいになった。
「あはは……ちょっと、載り切らないね」
見えていたであろう結果を、芝原は笑って誤魔化し「悪いけど残りは床に置くね」と告げ、尚も開封作業は続く。
次に出て来たのはシャンパン。酒を飲めない芝原のチョイスに大した期待はしていないものの、これはもしかして、俺が冗談だと流したあの発言を、覚えていての事だろうか。
日常使いのカルキで汚れた2つのグラス、片方を八分目まで、片方はほんの少しだけ、気泡の踊る淡い色の酒を注いだ。
多めに入った方のグラスを手渡される。
「それじゃあ、メリークリスマス」
「…………」
そのまま流れ作業のようにグラスの縁を傾けられたものだから、うっかり乾杯の動作に応じてしまった。
俺に祝うべきものなんてないって言うのに。
祝うとすれば……そうだな、このあと外出する予定らしいし、その時、この生活に終止符を打ち、そして芝原にしかるべき制裁を与えられてからだ。
もしそれが見事叶ったならば、これは最後の晩餐という事になる。
そう思えば、少しだけ笑う事が出来た。
グラスを呷る。シャンパンなんて飲むのは、いつ振りだろう。
間違いなく言えるのは、全裸に首輪のみなんて恰好で飲むのは、初めてだという事だけだ。
下戸のチョイスにしては、案外と美味い。多少は奮発したか、詳しい誰かにでも聞いたか、或いは単純に勘が良かったのか、それとも、今夜の事を思うと、自然と美酒になってしまうのか。
美味いのは結構だけれど、飲み過ぎないようにしなくては。
自制を心がけペースを落とした俺を見て、芝原はすかさず声をかけた。
「え、と……好きに、食べて」
「……取り皿とかねえの? ケーキ切り分けるとか」
「あっ……あ、ええと……待って、何か」
「ああ、いいよ、別に。好きに食うし」
「そ、そう……?」
随分と芝原は控えめで、俺は益々気ままな振る舞いになる。
この辺りは、先月のあのデートで顕著になった変化だ。
強気に出ると、芝原は怯む。
肯定的な態度ならば、一層だ。
これは俺の変化でもあるから、芝原がそれに慣れていないだけの可能性もある。けれど芝原の言動を肯定しているのにしどろもどろになるのは、こいつに負い目があるからに他ならない。
何を仕出かすか分からない、頭のおかしな人間なら恐怖の対象でも、ただ狂人を装っただけの茶番なら、恐れる必要はない。
そして何より、芝原は俺を失いたくないらしい。
ならば優位性は変わる。
俺の方が強い。強いのは俺。
ただ物理的に、閉じ込められているだけ。それさえ壊せれば、なんとでもなる。
しかしもう、壊しただけでは、現状を打破するだけでは、こいつを許せない。
綺麗にデコレーションされたケーキへ、無遠慮にフォークを突き立てる。ぞんざいに掬い上げると、ぼろぼろとあちこちが零れた。
構わずに、それを芝原へ突き出した。
「食えよ、ほら。口開けて」
「えっ……あ……」
「ほら。『恋人』が食べさせてやるって言ってんだ」
「う……うん……」
芝原はおずおずと口を開いた。
一口で食べるには少々大きく多少零れはしたが、概ねは芝原の口に収まった。
口に入らない量を少しだけ強引に食べさせる行為は、なるほど、確かに悪くない気分ではある。
それにしたって、そんなに怯えなくていいのに。お前にされた事をそのまま仕返ししようだなんて、芸のない真似はしない。
「ホールケーキにそのままフォーク入れて食べるって、なんか贅沢だよな」
だから冗談めかして笑ってみせた。
嘘じゃないさ。
実際これまでにない豪華なディナーだ。
たとえ近所のスーパーで全て揃うものだとしても、値引きシールの貼っていない惣菜も、食べきれないほどのケーキも、芝原自身は飲めない酒も、これほどのメニューを揃えて貰ったのは初めてだ。
芝原にとっても、充分に特別な日なのだろう。
「な? そう思わねえ?」
「……うん。そう、だね」
ぎこちないながらも、芝原も笑った。唇の端にクリームをつけたまま。
そう、これで最後だ。
それなら俺も、少しくらい楽しんでやろう。
男2人で殺風景な部屋の中、小さなテーブルを囲んで。会話もした事のない相手を拉致した男と、全裸に首輪を嵌めた男のクリスマスディナーだ。これがおかしくなくて、なんだ。
笑えるだろう、ほら。
最後だ。
これで最後。
そう思えば、俺は幾らでも笑う事が出来た。
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