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December 3/4
ひとまず駅構内へ向かった俺は、そのまま電車に乗る事にした。
本当は別れた駅の近辺で仕事を探すつもりでいたが、芝原は追って来ないし、財布と金も戻ってきたので、ターミナル駅まで向かう事に決めた。
そっちの方が栄えている事もあるし、そこなら、よく使っていたライブハウスも幾つかある。打ち上げで行った飲み屋や、始発待ちで世話になったネカフェ、そういうものも熟知していたから、何かと都合が良かった。
電車内まで漂うクリスマスムードの中、ドアの近くに立った俺は、到着までの間ずっと、芝原の免許を見つめていた。
名前は芝原公二。
年齢は29歳。
今日はまだ、29歳。
誕生日は、12月27日。
……3日後だ。
そういえば、あいつはイベント事が好きだったけれど、誕生日を祝う事はなかった。
俺の誕生日は調べきれなかったのかもしれないと考えていたが、自分の誕生日を失念するなど、芝原に限ってそれはないだろう。
俺が攫われたのは、確か去年の暮れ……28日だった筈。
なるほど、単純に時期が被っていなかったのか。
ただそうなると、新たな疑問は浮上した。
芝原は何故、今日終わりを告げたのか。
金がないと言ったって、数日先延ばしにする事も出来ないほど、逼迫してはいなかっただろう。
あれほど季節ごとのイベントに拘っていた男が、誕生日を無視した。
なんで? 俺の時にやれなかったから? 誕生日に別れるのが嫌だったから? それとも生年月日なんていう個人情報を、教えたくなかったから?
そんな事、どうだっていいと言ってしまえばそれまでだけれど、どうにも気になって仕方がなかった。
芝原はどういうつもりで、今日を選んだのか。
分からないまま電車は止まり、まだまだ賑わいを見せるクリスマスの街へと俺は降り立った。
ああ……そうだ、この感じ。
こんな喧騒の中に、よく俺はいた。
クリスマスなら大抵どこでもイベントを催していたし、ここ数年、この時期はクリスマスを謳ったライブイベントに出るのが恒例になっていた。
去年の今頃は、まさかこんなクリスマスを迎えるとは思っていなかったけれど。
特に当てもないまま、見知った道を歩く。
去年イベントに参加したライブハウスは、今年もクリスマスイベントを開催しているだろうか。誰か知り合いが参加していたりして。もしかしたら、新しいギタリストを見付けて、俺のいたバンドが出ているかもしれない。
知り合い……か。
会いたいような、会いたくないような。
不在だった1年間の説明を求められたら、きっと困り果ててしまう。
でも誰かに頼ってしまいたい気持ちも、大いにあった。
突然碌に知らない男に攫われて、監禁されて犯されて、今日唐突に解放されました、なんて、俺1人で処理するには、余りに荒唐無稽な出来事だろう。
しかも諸々の社会的信用は失墜していると来た。
バイトだって無断欠勤だし、アパートの家賃や光熱費はとっくに引き落とせなくなっている筈だ。バイトは解雇されて済んでいるかもしれないが、家賃やら何やらは滞納した分を請求されるとなるとそれなりの額だろうし、そうなれば手続きも面倒な事になるだろうし、諸々の処理をしつつ新たな生活を始めなくてはならないわけだ。
先が思いやられるったらない。
ああ、携帯はどうしよう。
充電されているか分からないし、こっちも料金未払いで止められてはいるだろうけれど、電源を入れる勇気はなかった。
どれだけの着信履歴や、未読のメッセージが届いている事か。考えるだけで恐ろしかった。
怒っているだろうか。心配しているだろうか。でも結局、返事は出来なかった。何も知らせる事は出来なかった。
バンドのメンバーをはじめとする、俺と繋がりのあった数少ない友人たちは、失踪した俺をどう思っていただろう。
それを知るのは、とても怖い事に感じられた。
携帯をオンにする勇気もないのに、けれど俺の足は、1番多くステージに立ったであろうライブハウスを目指していた。
常連の対バン相手や、箱のスタッフにも馴染みの顔はある。近付けば誰かしらに出くわす可能性が高いと分かっていて、何故か俺はそこに向かっていた。
行く当てがないなりに、そこらのネカフェにでも入って、あのフローリングよりはマシな場所で、寝ていたっていいのに。そのくらいの金は充分あるのに。
大通りから1本入った先。
ほらもう、看板が見えてきた。
地下に降りる階段付近に、たむろしている男女が見える。どうやら何がしかのイベントは開催されているらしい。
ここに来て、足が止まる。
誰かに会いたい。
誰にも会いたくない。
相反する両方の気持ちが、同時に強くなる。
なんでここに、来てしまったんだろ。
芝原とは全く違う理由で、俺にも不安はある。
これからどうすればいいのか。どうするべきなのか。
働かなきゃいけないとか、住むところを探さなきゃいけないとか、漠然とした目標はあるものの、その一歩が踏み出せない。
何しろ俺には、何もない。
帰る場所も、頼れる人も、何も。
甚だ不本意ではあったけれど、今朝までの俺の帰る場所は芝原の部屋であり、頼るべきは芝原であり、そこだけは確固たる事実であり、現実だった。
俺はそこから、解放された。解放されてしまった。
考えようによっては、俺はそこでもまた、手にしていたものを失った事になる。
今の俺にあるのは、着の身着のままで過ごすには心許ない所持金と、電源を入れる事も躊躇われる携帯。
他には何もない。
こんなに何もないのは、初めてだ。
イベントに来た客なのか、出番を終えた出演者か、楽しげに談笑している複数のグループ。その片隅に混じる事すら、今の俺には途轍もなく高いハードルに見えた。
1年もほったらかしにしてしまった世界の、どこに俺の居場所があると言うのだ。
俺のすぐ脇を通り過ぎる、名前も知らない人々だって、きっと帰る家くらいはある。
……俺も、実家にでも帰るか? もう何年も、連絡さえ取っていないのに? 勘当同然で、出てきたって言うのに?
…………それは、本当に最後の手段だ。
大体そんな事をしてしまえば、もう芝原に復讐する事も出来ない。
決して仲が良かったわけではなくとも、家族を巻き込む危険は冒せない。
じゃあ、もう、どうする。
何食わぬ顔で、フロアに下りるか。
知人に会ったら、その時はその時。
思い切って仕事の紹介でもして貰うか?
……バンドメンバーにすら何も告げず、突然いなくなったやつに?
じゃあ説明するか? 俺がこの1年、どこで何をしていたのか。洗い浚い、ぶちまけるか?
………………そんな事、簡単に出来るわけない。
どのくらいそうして立ち尽くしていたのか、気付けば階段前にいる集団は、違う人間に入れ替わっていた。
この距離では、顔は判別出来ない。みんな目の前の相手とのお喋りに夢中だし、中には待ち合わせらしき人物もちらほらいて、少し離れた場所で寒空の下突っ立っている俺の存在が、特別浮いているという事もなさそうだった。
誰にも気にされないというのも、これはこれで、次第に堪えてくる。
知っている場所に来たっていうのに、やはりもう、俺の知らない場所になってしまったかのようで。
頭の中も、心の中も、気持ちなんてちっとも纏まっていない。
誰かに見付かりたい。でも、見付かりたくない。
誰かに会いたい。誰にも会いたくない。
……本気で気付かれたくないのなら、さっさと立ち去ればいいのに。それが出来ないのは、誰かに見付けて貰う事を、本当は望んでいるのだろうか。
どっちにしろ、知り合いがいないのでは見付かりようはない。
いい加減、冷え込んできた。大体今、何時だろう。
そうだ、何も今日、行動を起こす必要はないのだ。
そろそろ、どこか入ろう。
予算を考えると、やっぱりネカフェが無難か。
無駄遣いは出来ないな。駅前まで戻って、少しでも安いところを探そう。
そう決めて、俺は漸く、来た道を引き返す事にした。
「っ、いって……」
だが、振り向き様に歩き出したのがいけなかった。
後ろから来た誰かに、思い切りぶつかってしまった。
酒とタバコの匂いがするコートに、顔面をぶつけて鼻を押さえる。
「あぁ? お前どこ見てんだ」
あからさまに不機嫌な声音が、頭上から降ってくる。
最悪……とにかくここはさっさと謝って、穏便に済ませよう。
「……すみません、不注意で……」
背の高い、年上の男だった。目つきが鋭く、ガラが悪い。その上酔っ払いだ。
ホント最悪……
「………………お前、」
絡まれる覚悟はしていた。下手をすれば殴られるくらいの心構えだってした。
しかし予想に反し、男は矯めつ眇めつ俺を見て、ぽつりと呟いた。
「お前、エンドルフィンのギタリスト?」
「っ…………」
今度は俺の目が、丸くなった。
1年間、耳にする事のなかった名前。
俺が、ギタリストを務めていたバンドだ。
こんなタイミングで、知っている人間に出くわすなんて。
「何やってんだ、こんなところで。噂じゃ突然姿を消したって聞いたが」
「いや…………ええと……それは……」
頭が真っ白になった。
いざ知っている人間と遭遇すると、何から話せばいいのか、さっぱり分からなくなった。
知って……いるのか?
誰……だっけ……
残念ながら、自分たちの知らないところで、大勢ファンのいるようなバンドでは、なかった筈だけれど。
「……にしても痩せたな。すぐには分からなかったぜ?」
「あの……すみません、どこかで、お会いした事……」
思い切って、訊いた。
相手が誰かも分からないまま、迂闊な事は言えない。
恐る恐る問いかけると、男は鋭い眼差しを更に細めた。
「……なんだ、忘れちまったのか」
そして狡猾そうに、口端を吊り上げた。
力強く、俺の腰を引き寄せて。
「あんなに口説いてやったのに」
「ぁ…………」
そうだ、この男だ。
しつこく店で働けと誘った男。
あの時は夏場で、もっとラフな格好をしていたから、すぐには俺も気付かなかった。
なんだったっけ、なんの店のオーナーだと言っていた? やたらと密着された事しか思い出せず、肝心な部分が出てこない。
ああでも、もういい。
この際だ。
「……それ、今でも有効ですか」
「お? どうした」
「仕事を、探してるんです。出来れば住み込みとか、出来ると助かります」
「…………そうか。まあ、まずは話を聞こう」
1年もの間、世間から姿を消してしまった人間なんて、もう、真っ当じゃない。
だったら、この男の素性がなんだって、構う事じゃない。
どうせもう俺だって、元の世界になんて、帰れないのだから。
それから、ここも自分の店だと言う飲み屋に連れていかれた。少し歩いた先にあったその店は、飲み屋と言っても騒がしさはなく、バーと呼んだ方が近い印象だった。
それより何より、俺はほどよく暖められた空調に何よりも感動した。厚手のパーカーでは、店内は少し暑いくらいだ。
薄いカーテンで仕切られた個室に通され、改めて男は自己紹介を始めた。
男の名前はサカキと言った。上の名前か下の名前か、そもそも本名なのかも知らないが、そう呼べと言われた。
ホストやらキャバやら普通の飲食店やら、色々と経営しているらしい。そういう店でもバンドやDJを呼ぶイベントをやる事があるらしく、ライブハウスなどにもよく出没するのだと。ついでに、一応は、本当に、ただの経営者らしい。
尤も、そういう店を管理している以上は、所謂普通の会社員といった類の人種とは、見た目も振る舞いも何もかもが違った。
けれど今の俺にとっては、その方がありがたかった。
完全な空白となった1年を追求されるわけにはいかない。
当初の予定通り、その辺は誤魔化しつつ、まずは金を貯めようと考えた。
だからサカキが様々な店の経営者なのだと知り、俺は率直に言った。
「どの店でもいいんです。働かせて貰えませんか」
見ず知らずの人間に頭を下げるよりは、多少なりとも接点のあった人間の方がいいだろう。
それもあって、俺は迷う事なくサカキに頼んだ。
「なんで急に?」
座っていても尚、背の高さを感じさせるサカキが、まるで面接官のように正面から俺を見据える。
「ちょっと……なるべく早く、稼がないといけなくて」
「バンドは? 前はそれを理由に断ったよな?」
「バンドは……もう、やりません」
「へえ? なんで?」
「…………メンバーにも、もう、合わす顔……ないんで……」
「それも分かんねえな。喧嘩でもしたわけ?」
「いえ……でも、無断で1年も音沙汰なしじゃ……」
「1年間、お前何してたの?」
「…………」
しどろもどろに応答していた口が、無遠慮な質問責めを前に、遂に何も発する事が出来なくなった。
完全に沈黙しても、サカキはただじっと答えを待っている。
「あ、あの、今、エンドルフィンは……どうなったか、ご存じ、ですか」
「ん? ああ、半年くらい前だったか、新しいギター入れてたな。評判も悪くないみたいだぜ?」
「そう……ですか」
さして興味もなさそうに、サカキは素っ気なく答えるとタバコに火を点けた。
このタバコの匂いも、なんだか懐かしい。年季の入ったライブハウスや、楽屋やスタジオの匂い。
俺も芝原も吸わなかったから、余計に匂いを強く感じる。
「で? もう1度訊くが、お前この1年、何やってた?」
俺は考えた。
考え込んで、漸く、発するべき言葉を、選んだ。
「ちょっと……碌でもない男に、引っかかってました」
「ははっ! なんだそりゃあ」
サカキは豪快に笑って、姿勢を崩した。
冗談だとでも思ったのだろうか。それもそうか。今の俺の発言で、俺のあの1年間を想像出来る人間がいるとは、到底思えない。
こんな答えで良かったのか、頭の中で違う言い訳を探し始めたところで、サカキはテーブルに身を乗り出した。
距離が縮まり、細められる目を、間近で見た。
「……へえ。どこぞで首輪にでも繋がれていたか?」
「っ!?」
言い当てられて、無意識に首に手を宛がう。
……忘れていた。
俺の首にくっきりと残る、1年間を物語る跡を。
屋外ではきっちり締めていたファスナーを、少し下げてしまった事を。
「そうかそうか。なるほど? そんなに痩せてんのも、そのせいか」
「…………はい」
「逃げ出したのか? ……違うな、あんな目立つところにいたって事は、解放されたのか」
「……そう、です」
こうなっては仕方がない。
静かに、俺は首肯した。
「そういう事情じゃあ人には話しづらいよなあ」
どこまで理解したのか、サカキは紫煙を燻らせながら頻りに納得している。
ええと……ひとまず、理解者を得た……のだろうか……
心の内はよく分からないが、変に疑われたり怪しまれたりはしていないようだ。
同情でもなんでもいいから、これでとにかく、当座の仕事と寝床を貰えれば……
「まあ、気持ちは分からないでもないがな。お前みたいなやつ、拘束のし甲斐がありそうだ」
「…………え?」
しかしサカキは意外な台詞を吐いた。
……俺ではなく、芝原の方に同調するって言うのか。
そんな反応は、予想していなかった。俺自身の素行を訝しむだけならまだしも、芝原の肩を持たれるなんて。
…………俺は、頼る相手を、間違えたのだろうか。
「なんて言うかな。お前さ、一種の人間には、好かれやすいと思うぜ?」
「……どういう意味ですか」
「お前、何かに入れ込んだりしなさそうだから。世の中、見返りが欲しい人間ばかりじゃねえからな」
「…………意味が、分かりません」
本当に、サカキはなんの話をしているんだか分からなくなってきた。
俺はただ、仕事と、住むところがあれば、それでいいって言うのに。
でも彼は貴重なツテだ。短気を起こして台無しにするわけにはいかない。
もう少し、話に付き合う事にする。
「ミュージシャン志望って言うわりに、ガツガツしてなかっただろ、お前。かと言って、いい加減にやってるってわけでもなかったし」
「……それが?」
「都合がいいんだよ、そういう人間って。何に対してもほどほどだ。何事も無下にしない代わりに、何が何でもっていうほどの欲もない」
痛いところを、突かれている気がする。
なんとなく、思い当たるところはあった。
芝原に監禁されていた1年間、俺は死ぬ気で反発した事もなければ、諦めて受け入れる事も出来なかった。それをほどほどと呼ぶのなら、間違いではないだろう。
「拒絶されない、依存もされない。便利だと思わないか?」
「……俺は便利に使われて、1年間もふいにしたって言うんですか」
好きだった。芝原はそう言った。
好きだと言われて、浮かれたわけじゃない。
でも便利だったとか都合が良かったとか言われるくらいなら、まだ、救いはあるように思えた。
「まあ、言いようはあるだろうが。そういう相手なら、物理的に拘束しちまえば、靡かない代わりに、逃げ出す事もない。実に都合がいい。一時的に関係を持つならな」
…………ああ、そうか。
そうなのかもしれない。
一時的に、か。
俺は芝原に、なんの見返りも与えなかった。
生涯を共にする相手だったならば、きっとそれは、酷く寂しい事だろう。
でも、いつか終わるつもりでいたならば。
自分のやりたい事だけ、やり終えれば。
ああ…………そういう事、だったのかもしれない。
「それで、話は戻るが」
サカキはタバコを揉み消した。
脚を組み替え、悠然と微笑む。
「住み込みの仕事が欲しいんだったか」
「……はい。前のアパートは、もう住めないと思うんで」
もう隠す事もない。正直に白状する。
サカキは、企み事をするように、双眸を細めた。
「それなら、俺の名義で一部屋用意してやろうか。俺の、愛人として」
「は…………? 今なんて……」
「愛人って言った。俺一応、結婚してるから。まあぶっちゃけ、男の方が好みでさあ」
ほら、と左手を翳す。
薬指には、銀色のリングが嵌められていた。
既婚者である事も、興味の対象が男である事も、たった今知った、思いがけない事実ではあった。
しかしそれ以上に、差し出された提案のインパクトが絶大だった。
「俺はお前の性格も気に入っているし、見た目も悪くない。だから囲ってやってもいい」
「で、でも、それじゃあ」
「安心しろ、首輪で繋いだりなんてしねえよ。我儘だって聞いてやる。小遣いもくれてやるし、勿論部屋の出入りも自由だ。音楽続けたきゃ、それも好きにしろ。多少の支援くらいはしてやる」
「…………都合が良過ぎませんか」
「俺にとって? お前にとって?」
冗談めかしてサカキは笑った。
これが本当なら、条件は圧倒的に俺が有利だ。
何もかも融通して貰える。男の俺が男の愛人だなんて事への屈辱感は、皆無ではないけれど、芝原と過ごした1年を思えば比較にはならない。
俺には大きな利点になる。
ではサカキにとっての利点は?
…………それで、さっきの話か。
既婚者という事は、俺が出しゃばらない事は最重要だ。
確かにそういう事ならば、向いているような気はしないでもない。
ゲイでもない俺が男の愛人だなんて、だって本望じゃない。サカキにだって特別な感情はない。たとえどれだけの金銭を与えられたとしても、サカキ自身を欲する事はないと断言出来た。
時が来れば身を引く。
あくまで一時的な、互いに都合のいい関係。
1年か、それ以上か、分からないけれど、一生は続かない関係。
……そうか、そういう事ならば、案外と俺は、適任なのかもしれない。
「愛人……って……具体的には? セックスの相手をすればいいって事ですか?」
「まあそんなところだな」
果たすべき義務は、それだけか。
あんな生活を1年送っても、男とのセックスというものに、未だ興味は湧かなかった。だけど嫌悪感もない。
サカキ自身にも、特に性欲が湧くわけではなかったが、生理的に受け付けないという風貌でもなかった。
そうやって自己分析をすればするほど、都合がいいと言ったサカキの言葉が腑に落ちた。
芝原も、そんな風に思う事は、あったのだろうか。
……でも俺は、何も承諾なんてしていない。
何から何まで、勝手だった。
テーブルの下でそっと、拳を握り締める。
「本当に、我儘、聞いて貰えるんですか」
「ああ。前々からお前の事は目ぇつけてたしな。バイトとしてでも、俺の店に置いておきたがっていたのは、知っているだろう?」
「……そうですか。分かりました」
物好きもいたものだな。
この男を信用していいものか、今でも量り兼ねているところはあった。
嘘を吐いていないとして、まだ40には届かないであろう年齢で複数の店を持ち、中には風俗店も含まれている。その上、愛人の生活も見てやろうだなんて。余り「一般的」と呼べる人種ではない事は確かだろう。
そんな人物の庇護下に入れば、俺は益々、真っ当な社会というものから逸脱する。
……けど、もう。
おいそれと人には言えない1年を過ごした。
これまでだって定職に就かず、何年もの間、ミュージシャンなんて夢を見ていた。
順当に、普通とか人並みというものから、逸れていっただけの話だ。
その決定打となったのが、芝原という男の存在だった。
それだけの話。
分かった。
決めた。
「では早速ですが、我儘言ってもいいですか?」
サカキにこんな事を頼めば、もうあとには退けない。
だけど、いい。
1年前には、もう戻れない。
だから。
「ペットを1匹、飼いたいんです」
「ペット? 犬か? 猫か?」
「いえ……『コレ』です。出来れば連れてきて欲しいんですけど、お願い出来ますか」
ポケットから財布を取り出す。
そこへ捻じ込んでいたカードを1枚取り出すと、サカキに手渡した。
「これ……ねえ。ちゃんと面倒見んの?」
サカキは怪訝そうな顔をした。
この流れで示された人物がどういう相手なのか、きっと察した事だろう。
俺は早速、芝原の免許証を利用した。
今ならまだ、引っ越しなんて出来ていない。携帯だって繋がる筈だ。
逃がすものかよ。
「勿論です。きちんと見ますよ。エサもトイレも」
俺にしたように。
お前の全てを、奪ってやる。
「あんまりペットに肩入れされちゃあ困るんだけど?」
「まさか。俺は今後サカキとしか寝ないし、なんならペットも、サカキに懐くように躾けるし。それでいいですか?」
芝原に肩入れするなんてとんでもない。
あいつは俺が好きなんだとさ。それじゃあ尚の事、俺はあいつに好意など向けるわけにはいかない。
叶いそうにない夢だけを持った、その日暮らし同然のフリーターだった俺ですら、失えるものは意外とあった。
首切り寸前の会社員である芝原は、一体どれだけのものを失う事が出来るのか、数えてやらなくちゃ。
きっと俺よりも、多い筈だろう?
そうでなくては、張り合いがない。
「分かった分かった。じゃあペットの飼える部屋を用意してやるから、ひとまず今夜はホテルだな」
サカキは承諾してくれた。
はは、凄いな。
芝原も大概だが、こいつもなかなか。
いやいや、そんな言い方をしてはいけないな。こんな好都合な人間、そういるものじゃない。大切にしなくては。
ほどほどに、な。
「ありがとうございます。ああでも、どうか早めにお願いします。出来れば……3日以内に」
折角だから、誕生日には間に合わせてやろう。
そして祝ってやらなくては。
吐いても、泣いても、許してなんてやらない。
お前だって、そうだっただろう?
「任せろ、俺は仕事は早いんだ」
狡猾な笑みを浮かべ、サカキは俺の手を取った。
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