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第13話
翌日、雷音はいつもより早く家を出た。
いつもなら、ゆっくり散歩がてら歩く道をタクシーを使って移動する。そして入り口で開店準備をしていた黒服の美田園と、軽い挨拶だけして店に入った。
店の中もまだ開店準備中で、見習いホストやフロアの黒服が掃除や準備をしているなか、雷音は一目散に店の最上階に向かった。
VIPルームの更に上の階のフロアは、雷音や奏大などTOPクラスのホストしか足を踏み入れる事を許されていない。かと言って雷音がここに上がってくるのは稀で、どうしても行かなければならない理由がなければ来ない場所だ。
ワンフロアを贅沢に使った最上階の一番奥の部屋の重厚なドアを乱暴にノックして返事を待たずに開けると、雷音の訪問を見透かしていた様な目をした蓮がニヤリと笑い、腹立たしかった。
アンティークなデスクに足を投げ出し、煙草を銜え、スポーツ新聞を広げる姿はヤクザと見紛うほど品がない。どれだけ部屋や置物が豪華絢爛でも、居る人間の風格一つでそれは粗悪品に見えるのだから不思議だ。
雷音はそんな蓮のデスクに近付くと、ドンッとそこに手を付いた。
「俺、プライバシーって大事だと思うんですけど。ルームシェアするなんて一言も聞いてませんけど」
「なーんや、挨拶もそこそこにプライバシーやと?アホか。俺はこの店のオーナーであり、お前の雇い主であり、使用者やで?お前のプライバシーなんて、俺の都合でどうでもなるもんや。同居人いうたって、少しの間やんけ」
どんな理屈だと思いながら、ふんぞり返る蓮を呆れ顔で見る。
悪いことをしたという認識は無いのか、許可なき同居人のことを抗議すればこの反論。予想出来た答えだったが、もう少し何か申し訳なさとか何か。
「ええか?うちがこうして何の弊害もなく営業出来てるんは、周りの環境を明神組が整えてくれとるからや。意味分かるか?その明神が倒れると、うちにとってもリスクが増えるっちゅうこと」
蓮は銜えていた煙草を灰皿に押し潰すと、蓮の後ろにあるデスクで一心不乱にPCで作業する安曇の方を振り返った。安曇はそれに気が付くと、蓮にPCの画面を向けた。
「知ってるか?この事件」
画面に写し出されたのは、雷音も新聞で見た万里が大怪我をする羽目になった抗争の記事だ。
雷音が見たものよりも新しい日付のそれだが、相変わらず仁流会の文字も無ければ、容疑者らしき人間も特定出来ていないという当たり障りのない記事。
出せない何かがあるのかと勘ぐりそうなくらいに、事件は進展をみせていない。
「それが何か?」
「この中国人っていうんは、最近、この近辺でもえげつない客引きしてる奴らや。他でもシャブやら訳の分からんクスリバラ蒔いて、好奇心だけ旺盛なガキ共餌食にしとる。雷音、うちがいくら高級で合法なホストクラブでもなぁ、周りの環境でそれは天国にも地獄にもなるってことやからな。意味分かるか?」
「それは、分かってますけど」
「なら、文句言うな」
問答無用。そんな言葉が雷音の脳裏に浮かんだ。
確かにBAISERがどこの裏組織からも狙われずに、ホストクラブとしてトップに君臨していられるのも明神組の後ろ盾があってこそ。
しかも明神組はそんなに深く関わってきてる訳ではない。あくまでも近辺の治安維持という、BAISERとは全く関係のない状態での後ろ盾だ。
持ちつ持たれつというよりは、蓮が明神をいいように利用しているという感じだ。
「とりあえず、明神の若頭のことは諦めろ。動ける様になったら、すぐに出て行くわ」
「え?何か、聞いてるんですか?」
「知らんわ。あいつらの世界のことに首突っ込んだら終わりやろうが。ただ、明神万里に怪我負わせた落とし前はきっちりつけてもらうやろうなぁ。ここは関西や。極道のてっぺんに君臨しとる風間組もあるし、隣には鬼頭組もおる。下手なとこ見せてもうたら、しめしがつかんやろうが」
「しめしですか」
「そーそー、水商売してる俺等にルールがあるように、あいつ等にもルールっちゅうんがあるんやろ」
「面倒ですよね、本当。俺、やっぱり極道嫌いです」
雷音はいつもよりも冷めた声で言うと、蓮に頭を下げてオーナールームを出た。
店に来るまでは、あれこれと文句を考えていたのにすっかり意気消沈してしまった。
組の抗争や、縄張り争い。BAISERのようにその恩恵を受けている者が居たとしても、それはたった一握りの者で、どちらかと言えば弊害を受けている者が大多数なのだ。
義理人情などで行動するような連中ではなく、間違いなくギブ・アンド・テイクの関係などではない。
百害あって一利無し。そう思って付き合っていかなければいけないような連中だ。
「はー、もう」
「疲れた顔」
思わず漏れた言葉に、ふふっと笑う声。顔を上げると、奏大が廊下の壁に凭れて笑っていた。
「おはよ…疲れてるかな?」
「うん、男前が台無しやね」
奏大はそう言って雷音の首に腕を回すと、その唇に吸い付いた。チュッと軽く触れるだけのキスをして、ニッコリ笑う奏大の顔はいつになく真剣だ。
「どうした?」
「変な話聞いてんけど?」
「何?」
「明神組若頭を飼うてるって」
「はぁ?」
飼うって何と笑った雷音が見たのは、いつもの戯けた奏大の目ではなく真剣そのもの。しかも不安が見え隠れしていて垂れ目がちの瞳が揺れている。
雷音はそれに眉を上げて、奏大の頭を撫でた。
「俺が極道嫌いなの、知ってるだろ?」
「せやけどっ!」
「大丈夫、奏大が心配するような事は何も無いから。な?」
と言ったところで奏大は納得する顔は見せず、雷音はしょうがないなぁと奏大の身体をぎゅっと抱き締めた。
万里より背が高い奏大の身体はしっかりとした男の身体だ。華奢さはあるが、骨組みが男だ。
万里の様なしなやかさはない。あんなに鍛えているくせに、万里の身体は驚くほど柔軟で軽い。
何でここであの人が出てくるんだ…?
雷音は奏大に気が付かれない様に息を吐くと、その背中をポンポンと優しく叩いた。
「ほら、満足?」
いくら誰も通らないとはいえ、蓮の事だ。ここのあちらこちらに、監視カメラが仕掛けられているはずだ。
そう思うと妙に居心地が悪くなる。だが奏大は雷音の肩口に顔を埋めたまま動こうとしない。
「奏大?」
「キスは?」
「さっきしただろ?おしまい」
「雷音からはしてくれへんやん」
すっかり不貞腐れてしまっている奏大に、雷音は眉尻を下げた。
奏大はまるで挨拶の様に、毎日雷音に好きだと告げてキスを強請る。戯けながら強請るものだから、他のホストはまた遊んでるなという程度かもしれないが、雷音は奏大の気持ちが本気だという事に気が付いている。
でも、それに答える事なんて出来ないのは、きっと奏大も分かっている事だ。だから奏大は雷音に何も言わないのだ。
蛇の生殺しのような事をしているんだと思う。キスされようが何されようが雷音は奏大を拒まないし、こうして抱き締めてやることもする。
ホストの延長のような事だが、奏大にとってはこれは辛い事なんじゃないだろうか?
「奏大、俺…」
いつまでもこんな中途半端な事をしているわけにはいかない。同じ職場で同僚で友人で…、奏大を嫌いではない、どちらかというと好きだ。
だがそれは弟や後輩を想う”好き”な気持ちで、それがそれ以上になることはない。
言うべきかと息を吐いた瞬間、奏大が今まで以上に雷音の首に回す腕に力を入れた。ぎゅっと抱きついて、雷音の首元で頭を振る。
「あかんよ、あかん。言うたらあかん。言わんといて」
泣き出しそうな、辛そうな言葉だった。
言うなと首を振る奏大を、雷音はただ抱き締めておくことしか出来なかった。
それから数日後、その日は鬱陶しいほどの雨だった。雨があまり好きではない雷音は憂鬱な気分で店に出勤した。
さすがにこの日ばかりは、というか雨の日はタクシーを使うのだが、そういう日はたいてい気分が冴えない。
そして厄日かというほどに、良い事が起きない。というか悪いことが起こる。
「そんな、嫌な顔しないでくださいよ」
ここ最近で一番の厄日だ。というか雨とか関係なく、ここ最近は悪いことしか起きていないような気がする。
雷音はそう思いながら、ゆったりとソファに座ってブランデーを嗜む男に嘆息した。
ホールの一番奥の席。他の席以上に見え難い位置にあり、少しばかり特別なところ。そこへ呼ばれた雷音はニコリともせずに、その歓迎出来ぬ客に蛾眉を顰めた。
「…いらっしゃいませ。って言う方がいいですかね?神原さん」
”変態”の人だと思いながら、げんなりしてとりあえず席に付く。
万里が雷音を追い回していた時に何度か来た事がある神原は、すでに金庫番である安曇に”上客”としてチェックされていて、おもてなしにはぬかりなし。
余計なヘルプも付いていないし黒服も距離をあけて立っていて、神原はゆうに5、6人座れる扇型のソファの中央で長い足を組んで座っている。
テーブルには特徴のあるボトルデキャンタが一本だけ置かれている。
ステファニー・バリーニによってデザインされたデキャンタで、中身はその上品なデキャンタに勝るとも劣らないヘネシー・パラディ・アンペリアルだ。
「これ、ボトルキープされてるんですか?」
「ええ」
「コニャックがお好きなんですね」
「まぁ、好きというか…。基本的にあれが浴びるほど飲むので、私はそのお溢れをいただくくらい」
「お溢れ…って。これ、知ってますか?ロシア皇帝のために、特別にブレンドされたヘネシーの名品の復刻版と言われてるコニャックですよ?」
「そうなんですね?確かにとても甘く、香りもフルーティーで上品だ。女性にも人気だと聞きました。まぁ、でも私はそこまで強くないので、なかなか嗜む程度しか…」
アルコール40度のヘネシー・パラディ・アンペリアルをしれっとした顔で飲みながらよく言うぜと喉元まで出かかったがそれを飲み込み、雷音はそうですかと短く返事をした。
「今日は、プライベートで来られたんですか?」
というか、何しに来たんですか?
「まぁ、そうですね。今日は、お渡ししたい物がありまして」
神原はそう言うと、足元に置いていた紙袋を雷音の方へと寄せた。
何の変哲も無い黒い紙袋。いや、極道である神原から貰う紙袋を”何の変哲も無い”と言うには語弊がある。
「…中身を聞いても?」
「ああ、中身を確認していただいても結構ですよ」
グラスを傾け、どうぞと促されるが、中を見た瞬間に共犯者になるんじゃないだろうなと疑心を抱く。
そうせざる得ないほどに、神原は余罪が多く全くもって信用ならない。だが中身を確認せぬまま持ち帰るのも憚れる。
雷音は恐る恐るながら紙袋をチラリと覗き、そして蛾眉を顰めた。
「これ…」
「ダブドフ・マグナムです。自動販売機で売っている様な煙草ではないので、お持ちしました」
その紙袋に入っていたのは、最近では家のリビングでもよく見かける煙草だった。
ベビーフェイスに不似合いなそれを小さな口に銜えて燻らし、独特の京弁で喋る万里の愛用の煙草。それがカートンで二つも入っていて、雷音は嘆息した。
「あのね、神原さん。もう、いいんじゃないですか?」
「何がですか?」
「神原さんの言う”あれ”は、とても元気になりましたよ?そろそろ引き上げても問題ないでしょう?」
「なるほど、元気ですか」
ククッと喉を鳴らして笑うので、ムッとしてしまう。何が可笑しいのかさっぱり分からない。
「元気ですよ。というより、全くあなたが顔を見せに来ない事に、俺はビックリしてますけどね。お預かりですよね?永住じゃなくて」
「永住」
神原が珍しく、ふふっと作り笑いのそれではない顔で笑った。
「面白いですか?」
「ああ、失礼。まぁ、そうですね。預けっぱなしになってしまっていて申し訳なく思っています。忙しいというのは言い訳に聞こえるかもしれませんが、何分、ややこしい相手なもので。それに一応、私も裏社会では顔が知られているのでね。しょっちゅう、あなたの自宅を訪問するのも躊躇ってしまうんですよね。何か、特別な関係を持っているのかと勘繰られると、余計に面倒でしょう?」
「ゲイだと思われるってことですか。しかも、あなたが相手の」
「ふふ、勘のいい人は好きですよ。まぁ、私がどう思われようが構わないのですが、あなたに危害が加わるのは困るので」
「ええ、大いに困ります」
極道に関わりたくないという理念は悉く覆され、今では極道の長と同居生活だ。
挙げ句の果てに、極道のイロだなんだと思われては堪ったものではない。
「ああ、そういえば…。話は変わりますが、俺、洗濯機を使えない現代人、初めて見ました」
「洗濯機、ですか?」
突然の話題に、神原は首を傾げた。
「洗濯機に限らず、家電全般ですね。掃除機すら、まともにかけれない。スイッチ入れるだけですよ。何も出来ないとは聞いてましたけど、出来なさすぎでしょう。何ですか、あれ。箱入り坊ちゃんですか?」
「ああ、あれですか。まぁ、箱入りに育ってますねぇ。そうですか、未だに洗濯機も使えないんですか。アホですね」
「でも洗濯機の中に水を入れるというのは知っていたみたいですよ」
「まぁ、それは幼稚園児にも分かる事ですものねぇ」
「ええ、水道の水をバケツに入れて、それを洗濯機に入れてましたものね。本当、大丈夫ですか、あんなんで」
「…それは、ひどいですね」
さすがの神原も引き気味だが、それに遭遇した雷音はもっと引いた。ドラム式の洗濯機の蓋を開けて、せっせと水を運ぶ滑稽さ。
笑いよりも、大丈夫か、コイツという心配の方が先に出た。
「いや、久々に楽しい酒が飲めました。雷音さん、あれは近々、引き取りに行けると思いますので迷惑でしょうが、それまでよろしくお願いしますね」
神原はニッコリ笑うと、そう澄まして言った。
今日は本当に散々だった。神原が帰ってから、安曇のつける通称”デスノート”に書かれている客が現われて、奏大も雷音も他のホストも酷い目に遭った。
経産省のお偉方の娘は、羽振りが良いが頗る酒癖が悪い。VIPルームを占拠してホストを次々呼ぶのはいいが、拘束時間が長い。
そうなるとホールの方にTOP不在という、あってはならない事態が起こるのだ。
そして酒癖が悪いというのは、言うなれば”私の酒が飲めねぇのか!”の悪さだ。今で言うアルハラ。
どれだけVIPルームで売り上げに貢献してくれたとしても、ホールの手薄感が他の客を不快にさせ、長らく来店されなくなるなんていう事も多々ある。
そういう理由でBAISERの金庫番の安曇からすれば、抹殺したいほどに腹が立つ客なのだ。
それはホスト連中も同じで、こういう客にうんざりしてBAISERに来たのに、こんな無謀な飲みを強要されるのは良い気はしないだろう。
いっそ、蓮に出禁にでもしてもらうかなと思いながら、少しふらつく足取りでマンションに戻った。
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