癖もなく歪みもなく、ただ走り書きのようにして書いているので、少しだけ崩れている。だが、それでも十分に美しい文字だ。 「俺、字はあまり上手い方じゃないから」 雷音の字はちょっと癖があって、顔に似合わず男らしい乱暴な文字だとか言われることがある。あまり褒め言葉にはならない言葉だ。 それなりに改善しようとしたものの、最近はスマホやPCなどのツールが溢れていてペンを持つ機会が減ってしまったせいで一向に上達しないままだ。 「それなりに上手ないとあかんかいな。俺、師範やさかい」 「え？師範って師範…？書道の？」 雷音は万里の告白に少し衝撃を受け、目を丸くした。万里はそんな雷音の顔を見て、小さく笑って頷いた。 「意外やろ。格闘とかやのうて書道な。俺、書道家やねん一応な。書道でなら文部大臣賞やとか金賞やとか特別賞とかもろたし、書道展もしたことあるで」 「え、ガチじゃん…。好きなんですか？」 「うーん、かーかが」 「お母さん？」 万里はナイトテーブルに置いてあった煙草に手を伸ばした。だが先に雷音がそれを手に取ると、口に咥えて火を点け万里の唇に持っていった。 「格闘技は本格的にやらすんは好かんかったみたいでやらしてもらわれへんかったし、サッカーや野球やて俺がセンスのうて向いてへんかってん。やて、かーかはとりあえず誰でも見に来れる何かをさしたかったんや」 「誰でも？」 「せや、まぁ…俺を明神に預けた爺はんとかな」 「ああ、なるほど」 そういう理由かと雷音は指を鳴らした。 「書道やったら爺はんやて見たら分かるやろ。それに賞取れば新聞かて載ったりしはるし、とにもかくにも俺がちゃんと育ってるってゆーんを見せたかったみたいや。まぁ、道外れてしもうたけど」 「お爺さんとも一度も逢ってないんですか？」 「俺は明神ん家の子やから。かーかもとーとも俺を息子やて言うてくれるんやけど、会いに行けって言われると…捨てられるんちゃうかて怖なるときがある」 「それはないなー、ない」 雷音が笑い飛ばすように言った。まるで、何を馬鹿なことをと言わんばかりの顔だ。それに万里は少し、ムッとした顔を見せた。 「何で分かるん」 「神原さんに聞いたんですけど、あんた、食に興味がないんじゃなくてお母さんのご飯以外はあまり受け付けないそうですね。俺のは口にあったみたいだけど。食ってまさに血となり肉となるんですよ。あんたのその髪や肌をみてれば、どれだけ栄養バランス考えて育てられたかすげぇ分かります。それに、作法も綺麗だ。箸の持ち方とかマナーとかね。神原さんともう一人、こないだうちに来てた人と三人合わせて三兄弟で育てられたらしいですね。全員を分け隔てなく育ててくれて、神原さんもお母さんには頭が上がらないとか。その中で末っ子のあんたが一番マザコンだって聞きましたよ」 「海里め！人ん知らへんとこで、言いたい放題やん」 万里は悶えるようにして喚いて、足をバタつかせた。 「そういえば、その三兄弟の中の飛鷹さんってどういう人なんですか？」 「由？由はなぁ…。雷音も由には気をつけや」 「え？」 気を付けろとはどういうことか分からずに、雷音は戸惑い気味に万里を見た。一新一家として気を付けるべきなのか、それとも…？ 「由は俺んためだけに生きてるから、俺にとってマイナスやて思うた人間は容赦無く始末してくるで」 「どういうことですか？万里さんのためだけに生きてるって…え？飛鷹さんと…寝てるとか？」 万里は雷音をギロッと睨んだが、いや、自分のためだけに生きてると聞けばそうなるだろう。他にどういう意味があるのだ。 「俺もそこまで節操なしやあらへん。ああ、そっか、俺のためだけって言うたら語弊あるか。俺のためゆーか、宗政の亡霊に囚われとる」 「は？」 ここにきてオカルトな話かと、雷音は蛾眉を顰めた。その顔に万里は笑って、灰皿に煙草を押し付けた。 「由は明神宗政が拾うてきた子やから、そん時から亡霊に囚われてんねん」 「宗政さん、ですか？」 「せや、明神万葉の一人息子やった男。由はちっさい頃に宗政に拾われて、宗政のためだけに生きとった。それがある日、抗争で死んでもうて…。宗政が死んだことで抗争は一気に激化してもうて、取り返しんつかんとこまでいってもうてた。結果、俺が巻き込まれるあの事件が起きた。由は宗政を失のうて、どないやって生きていけばええんか分からんかったんやけど、そこに現れたんが俺。まぁ、よぉ可愛がってもろた。もともとかーかもとーとも俺が極道になることを良しとせんと、なかなか首を縦に振らんやった。やけど、そない時にちっさい火種が大きいなってもうた事件があって、ええ年になってた俺は勝手に一人で動いた。まぁ、なんのこっちゃあらへん、結局、俺は左目を赤く染めることになってもうて由はそん責任を一人で被って降格して俺の前から姿消した」 雷音は自嘲気味に笑う万里の頬を撫で、左瞼にキスをした。簡単に話した目がこうなったあらましではあるが、細部まで聞くと壮絶なことだっただろう。 「平成の極道戦争でしたっけ。仁流会が大荒れの時ですよね。うちも少なからず影響はありましたけど、それは飛鷹さんが関係ある事件だったんですか？」 「いーや、とばっちりみたいなもんや。やけど由は俺が組ん上層部から外れることを良しとせんやったんや。なら自分が下がると。由にとって明神組は自分に与えられた唯一の世界で、俺はそん世界を構築出来る唯一の人間やねん」 「それって、飛鷹さんがあなたを利用しているだけじゃないんですか？」 まるで自分の生きる世界のためだけに、そういう感じがして雷音は暗澹とした顔を見せた。 「利害一致や。海里…神原はそれで組ん均衡が保たれるならと由を降格することを良しとしたし、俺に由んことで負い目を持たせれば少しは大人しゅうなるってゆーんで二重にプラスって考えたんや。由が俺を自分の世界を構築するために利用してたとしても、神原は由を利用するし俺は腕っ節しか才があらへんから組んためになる動きを探らせて二人の言う通りに動く。雷音やて、兄貴が外に出らんから自分が動くけど、暴力的なことは兄貴に投げるってことやろ？結局、俺も雷音も極道なんやて」 万里の言葉に雷音はぐうの音も出なかった。確かに表立ってのことは受け入れようとは思っていたが、裏側の仕事に関しては雨音に一任するという約束をしてきた。 結局、自分は雨音を利用し、表舞台を嫌う雨音は雷音を利用しているのだ。結局、自分もそうなのだ。 「うちの柘榴と中で一緒だったっていうのは、その事件のせいですか？」 「ああ、柘榴…そや、ちょい雰囲気変わったけど、あの名前はないもんなぁ。本名なん？柘榴愛生」 「本名ですよ」 「雨音の守護霊みたいな男やん」 「うーん、ちょっと飛鷹さんに似てるかもしれませんね、関係性は」 雷音はそう言うと、にっこりと微笑んだ。万里はその顔に何か隠しているなとは思ったが深くは聞かず、ゆっくりと起き上がると雷音の上に跨った。 「おしゃべりは終わり？」 「あんたと喋るんは好きやけど、ヤルんはもっと好きやさかいな」 情緒がないと雷音は笑って、白い腿をゆるりと撫でた。 時間というのは持て余している時は時が止まっているのではないかと思うほどに長く、退屈で辟易としてしまう。 だが、この一分一秒を大切に余すことなく味わいたい時は、驚くようなスピードで時は過ぎてしまい、いつもよりも時間が早く進んでいるような錯覚に陥る。それが今この時だなと、雷音はスーツのジャケットを着て思った。 隣では同じようにスーツのジャケットを着た万里が、キュッとネクタイを締めたところだった。そしていつものようにサングラスを付けて、赤い宝石を隠してしまった。 「着替え、持ってきてたんですね」 「ああ？そりゃ、あの趣味の悪い着物でまた出て行くんはなぁ。それに誰かさんのせいで皺だらけやしな」 すいませんねと不貞腐れたように言うと、万里はせっかく締めたネクタイを外して雷音のシャツの襟を立たせるとそれを滑り込ませた。 「これから出勤？」 「そうですね」 万里はするするとネクタイを結んでいくと、キュッと締めた。 「俺はあれやけど、雷音は崩した感じやない方がええと思うんよな。あんたのは、ダメにしてもうたし」 「そうですね」 ふふっと笑う万里に伴って部屋を出た。ここを出れば次はいつ逢えるかは分からない。そう思うと腕を引いて部屋に戻りたい気持ちが込み上げてきたが、それを何とか飲み込んだ。 これから、何度、こんな思いをするのかと思ったが、そんな思いをしたとしても離れたくないと強く思った。 エレベーターに乗ると、万里がするっと雷音の指に指を絡ませた。雷音はそれをきゅっと握って、離れたくないなと呟いた。 「逃げるんもええかもな」 万里が下がる数字の点滅を見ながら言ったが、雷音はそれに苦笑いをした。 「思ってもないことを」 「雷音かて、そらちゃうわて思うから今、ここにおるんちゃうの」 雷音は嘆息して万里の肩に頭を乗せると、囁くように呟いた。その言葉に万里は身体を強張らせた。驚きからというのが正解か、雷音がそんなことを言うなんてと思ったのだろう。 だが次の瞬間には顔を左目と同じように赤く染めて、返事をするように頷いてどちらからともなく口付けた。 ホテルのロビーを出ると、車が二台停まっていた。神原は万里たちを顔を見ると肩を落として、やれやれと言わんばかりの顔で近付いてきた。 「二人して愛の逃避行でもするのかと思いましたが、お利口でしたね」 「あん着物は嫌がらせのつもりなん」 「お似合いでしたよ、ねぇ？」 同調を求められて、雷音は返事に困った。似合っていると言えば似合ってはいたが、自分の目は相当イかれてしまっているので万里がどういう格好をしても、やはり似合うと言ってしまうのだろう。 雷音のそんな表情に呆れたのか、神原は先に車に戻りますと先頭車両に乗り込んでしまった。 「ほな、連絡して」 「万里？」 返事をしようとした言葉を遮った声に、雷音は背が冷えた。振り返った先に見た人物に、喉が詰まってすぐに万里を見た。 「和花？」 万里が紡ぎ出した名前に首を締められた気がした。和花は父親とも思えるような紳士に先に行くように促すと、ゆっくりと近づいてきた。 カシミアのコートを着てロシアンセーブルを使った大きなストールを巻き、足元は上品にストーンを散りばめられたマノロ ブラニク。輝くような装いだが、その顔は一切それに引けを取らない美しさだ。 「久しぶりね、ここで何をって言うのも変ね。あなたのホテルですものね」 いざ、目の前に来た和花を見て、雷音は居心地の悪さを覚えた。 そうだ、彼女は婚約者なのだ。数時間前まで身体を繋げて、これからも一緒に居ると言ったものの万里に婚約者が居るのは変わりがないことなのだ。 いつか結婚するであろう二人を見たとき、自分が冷静で居れるのかが雷音には分からなかった。いや、居れるわけがないのだ。 途端、息苦しさに唇を噛んだ。今でさえ、万里が和花を見るのが腹立たしく思えたのだ。嫉妬とは恐ろしいものだ、自分が自分で居れなくなる。 「なんだか騒がしいことをしていたようね？」 和花はフッと笑うと詰るように雷音を睨みつけた。その目に雷音は違和感を覚えた。 嫉妬や妬み、和花の目にあるのはそういう感情ではなく、これは…。 「万里、あなたまさか自分だけが普通にハッピーになれるだなんて思ってないわよね？」 「いやいや…」 万里は眉尻を下げて、和花にまたその話は後でと言っている。だが和花は引き下がる気はないようで、ジリジリと躙り寄った。 「なにごとですか？」 なかなか車に戻ってこないことに痺れを切らし、神原がやって来た。万里は和花の前に立ち、いやいやと手を振って神原を追い払ったが神原は和花に気がつくと大袈裟なくらいに音を立てて舌打ちをした。 「阿婆擦れが…」 神原がそう悪態を吐いたのを雷音は聞き逃さなかった。え？誰のこと？と思わずキョロキョロしてしまう。だが、それが自分のことだと理解した和花はカッと顔を赤らめ、万里を押し退けると神原に大股で近づくと頬を打った。 「あたしが阿婆擦れなら、あんたは下衆なチンピラよ！」 和花の言葉を聞くや否や、神原は容赦なく和花の頬を打った。華奢な和花の身体が吹き飛ぶほどにだ。 雷音は驚いてその身体を受け止めた。 「神原さん！」 雷音が抗議の声を上げると和花は雷音の腕を振り払い、そのまま隣の万里の胸を何度も叩いた。 「あんたが！あんたさえ…っ！あんたさえ生きてなけりゃ！」 髪を振り乱し、涙でメイクは崩れ、殴られた頬は赤く、初めて会ったときのあの凛とした和花の姿はどこにもない。 泣きながら胸を叩く和花を万里は申し訳なさそうに受けていた。 「あんたなんか…！あんたなんか事故で親と一緒に死ねば良かったのよ！！」 「和花さん！」 さすがにそれはないだろうと雷音が止めようとした横から神原が入り込み、和花の髪を掴んだ。 「痛い！！痛いってば！！離してよ！この下衆野郎！！」 「調子乗んな、裸にひん剥いて売り飛ばすぞ、糞アマ！おい」 呼ぶとすぐに小山内がやってきて、和花の身体を俵のように持ち上げた。スカートから伸びる白い生足が、長身の小山内に担ぎ上げられたことで露わになる。 雷音は思わずジャケットを脱いだが、掛けて隠すなんて出来ないほどの暴れっぷりだ。 「離して！離してよ！」 「神原さん！さっきから乱暴すぎますよ！」 「そりゃ、すいませんね。躾がなってないもんで」 「躾って、彼女はそんな年じゃないし、あなたがここまでして良いわけないでしょ！？万里さんの婚約者だっていっても」 「雷音っ、」 万里が雷音の腕を掴んで制するが、雷音はさすがに怒りが治らないと今度は万里を睨んだ。 「あんたも！自分の婚約者がこんな好きにされて、何とも思わないのか！？」 「いや、やて…妹やもん」 「だからって！…え？妹？…だれの？」 「すいませんね。俺の妹なんですよ、このアホ」 神原が指を鳴らすと、小山内は和花に自分のジャケットをかけて歩き出してしまった。人攫いと和花が騒いでいたが、車に押し込まれ声は消えてしまった。 「家族の問題に、他人は口出しは出来ひんやん？」 「妹…」 「あいつは母親の籍に居るんで、苗字は違いますがね。クソ腹立つことに妹なんですよ、私の」 似てると言われれば似ているのか。いや、似ていない。兄妹とはいえ、似てなさすぎる。 「婚約者っていうのも嘘ですよ」 「え…。ええ！？う、うそ？」 「あれでも見た目は良い方みたいなんでね、あいつが婚約者ってなると挑んでくる女が居ないんです。女関係の面倒ごとはごめんなので、こっちとしても都合が良かったんで放置していたんですけど、最近は目に余る」 「え、和花さんはどうして婚約者なんて嘘…」 「聞いたでしょ？ハッピーになれると思うなって。そのままですよ、あいつの望みは私と明神を幸せにしないことなんでね」 雷音はそれを聞いて、和花の目に見た違和感がスッと泡のように消えた。和花の目に見たのは、憎しみだったのだ。 「え、あんた知ってたんですか？」 「俺？まぁ、そりゃね…」 万里はひどくバツが悪そうな顔をした。それに神原が鼻を鳴らした。 「だから付け上がるんですよ。ったく、早く手を打てって言ってたのに結局これだ」 「やて、和花の気持ちも分かるから」 「俺には一ミリも理解出来ないね」 神原は言い捨てるようにして言うと車に戻ってしまった。そして、万里も挨拶もそこそこに車に戻り、何だかひどく後味の悪い別れになってしまったのだった。