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8-③

 落ち着かないままとった食事は、あまり味がしなかった。  それでも顔が引きつることなく、上手に笑えていたとは思う。 「じゃあ、また。めし、サンキュな」 「うん。こちらこそ、今日はありがと」  アパートの前まで送ってもらい、啓介は走り去る自転車に手を振った。  静かな夜の中では、アパートの階段を上る足音もよく響くのかもしれない。玄関のドアを開けると、待ち構えていたように千鶴が立っていた。「怒っています」とアピールするように、わざとらしく目を細めてこちらを睨んでいる。  機嫌を損ねるようなことをした覚えは無いので「何?」と啓介は睨み返した。 「電話があったの。緑川さんって人から。どういうことか、説明してよ」 「あー、なるほど」  そう言えば保護者の承諾がどうとか言っていたなと、緑川と海藤の交わしていた会話を思い出す。早速コンタクトを取ってくれたのは有難いが、目の前にいる母親はどう見ても機嫌が悪そうだった。根回しならもっと上手にやってくれと、啓介は心の中で毒づく。 「ねえ、今日は桜華大に行ってたの? そこでリューレントの編集長に気に入られて、今度撮影に参加するって本当? そんな夢みたいな話、信用出来ないんだけど。騙されてない?」 「大学の構内で会ったし学生からも名前で呼ばれてたから、緑川さんの素性は確かだと思うよ。あと、編集長からは名刺貰った」    言いながら、千鶴の目の前に海藤の名刺を差し出した。シンプルなデザインだが、上質な用紙やフォントなど随所にこだわりが見える。それでもただの紙切れと言ってしまえばそれまでで、これで信用しろと言うのも難しいかもしれない。  千鶴は無言で名刺を受け取り、ダイニングテーブルの椅子を引く。ストンと腰を落とす間、ずっと視線は名刺に縫い留められていた。千鶴を素通りして自室に引きこもる気にもなれず、仕方なく啓介も向かいの席に腰を下ろす。

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