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8-④

「千鶴は緑川さんから何て聞いたの」 「今度の撮影はお試しみたいなものだけど、この先、長く続ける方向で真剣に考えて欲しいって。あと、特待の話も聞いた」 「あー、そう。じゃあ僕から特に説明することはないかな」 「あるでしょ、一番肝心なこと。啓介はどう考えてるの」  名刺から顔を上げた千鶴は、一言で言ってしまえば泣きそうだった。ただ、泣くのを堪えるために唇を噛んで口をへの字に曲げているので、酷く怒っているようにも見える。  この顔には少し弱くて、啓介は観念したように深く息を吐いた。自分の身を案じてくれているのが、痛いほどわかってしまう。 「挑戦しようと思ってるよ。桜華でちゃんと学んで知識を身に着けたいし、撮影の現場でしか得られない経験を積みたい。ついでに人脈も欲しいなんて、僕って欲張りかな。でもさぁ、誰でも手にできるチケットじゃないでしょ、これ。手放す気はないよ」  千鶴の表情は、ますます曇る。 「そのチケットの対価は考えたことある? 周囲の期待に応えるために、あなた血反吐を吐くわよ。外野からの嫉妬も羨望も辛いけど、そんなのまだ無視すればやり過ごせる。足を引っ張られても、振り払えばいい。だけど、自分の中から湧き上がる空虚には耐えられなかった。正解が見えなくて、内側から膨らんだ不安が自分自身を食い破ろうとするの。指の隙間から色んなものがこぼれ落ちて、結局何も残ってない両手を見て絶望した。あんな辛い思い、啓ちゃんにして欲しくない」  嫌な記憶を閉じ込めるように、千鶴は開いていた手のひらを握り締めた。 「もしかして、僕が行こうとしてる道って、千鶴も歩いたことのある道なの」 「そうよ。こんなところまで親に似るなんて、本当に参っちゃう。リューレントみたいな格式高いモード誌じゃなかったけど、十代に絶大な人気を誇るファッション雑誌で読モをしてたのよね」  初めて聞く千鶴の話に、啓介は目を丸くする。 「モデルをしながら、都内の服飾科がある高校に通ってたの。自分にはそこそこ才能があると思っていたし、死ぬほど頑張ったつもりでいたんだけど、結局私には無理だった。高校卒業後に専門学校に進学したけど、限界が見えてすぐに辞めちゃったわ」 「何が一番辛かったの。やっかみ?」  身を乗り出して尋ねる啓介に、千鶴は「ううん」と静かに首を振った。 「違う。自分が嫉妬する側に回ることが一番辛かった。妬まれる分には、戦えたの。でも、提出した課題をこっぴどくけなされたり、誰かの作ったドレスがとんでもなく素敵だったり、そんなことが積み重なっていくうちに、ちょっとずつ自分が削られていく気がして。いつの間にか夢に向かって進む人たちが眩し過ぎて、まともに見られなくなっちゃった。少し前まで、私は向こう側にいたはずなのに。この世界は私を求めてなんかいないんだって、どんどん自信がなくなって、そうするとモデルの仕事も上手くいかなくてね。笑えないのよ、カメラ向けられても」  重い息を吐いて両手で顔を覆った千鶴を、啓介はそれ以上見ていられなくて目を伏せた。  昨日までは、到底ピンとこない話だった。けれど今日、ランウェイを歩いた自分になら、その恐怖が少し想像できてしまう。  震えながら戦っていた笹沼の姿が脳裏に蘇った。  千鶴は才能の殴り合いに耐えられなかったのだろう。

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