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9-⑧
「永遠 、口紅塗るからちょっと顔上げてもらえる?」
「いいよ」
髪をセットしていたヘアメイクの女性に声をかけられると、ノートを膝に置いてスッと顔を上げた。目を閉じると長い睫毛が頬に影を作る。「こういう球体関節人形が部屋にあったらお洒落だなぁ」などと、啓介は隣を見ながらぼんやり思った。それからふと、「とわ」と呼ばれていたことに気付く。
「ねぇ、『とわ』って名前?」
口紅を塗られていて答えられない隣の子の代わりに、ヘアメイクの女性が笑いながら「そうだよ」と返事をした。
「永遠って書いてとわ。綺麗な名前よね。あなたは本名のままで活動するの?」
そう聞かれてハッとする。名前のことなど、全く考えていなかった。
「ううん、本名は伏せたい」
「そっか。じゃあ、あなたも名前考えなきゃね」
「名前かぁ……」
しかし急に言われてすぐに思い付くものでもない。
啓介が頭を抱えて唸っていると、松永が申し訳なさそうな顔で戻ってきた。
「梅田くん、ごめん。予備のブーツがまだあったと思ったんだけど、快くんが履くことになって。もう他にないんだって」
「あ、ごめーん。使いたかった?」
部屋の奥から、あっけらかんとした声がした。
メイクルームは十畳ほどの四角い部屋で、装飾を一切そぎ落とした極めて簡素なヘアサロンのようだった。壁に取り付けられた鏡は四つあり、啓介は入り口から一番近い席にいる。
永遠とヘアメイクの影に隠れていて気付かなかったが、先ほど更衣室で出会った男性モデルが一番奥に座っていた。
「急に編み上げブーツを合わせたくなっちゃってさ。もしかして同じこと考えてた? 残念だったねぇ」
言いながら、ひけらかすように足を組んでブーツを見せつける。
啓介は快 と呼ばれた男性を見て、唇を噛んだ。
啓介と同ブランドのスーツに黒いシャツを合わせ、首元は色の違うネクタイを二本使い、アレンジの効いたリボン結びにしていた。パンツはわざとたるみを持たせながらブーツインしている。
ブーツを先に取られたことも、それを得意気に誇示されたことも、別にどうでもよかった。ただ、彼の選んだ小物や服のセンスが予想以上に良いことが、何よりも悔しかった。
雑誌の中で見るコーディネートに憧れを抱くことはあっても、他人のセンスに嫉妬したのは初めてのことだ。
負けたくないと強烈に思った。
「松永さん、ごめんね。ブーツはもういいや。ブランドカラーの入ったスニーカー借りたいな」
悔しそうな顔なんか一ミリもするもんかと、啓介は悠然と微笑んで見せる。松永はまたしても脳内シミュレートしたらしく、ポンと手を打った。
「あのスニーカーか! それも合うね。きみ、本当にセンス良いな」
親指を立てて歯を覗かせた松永がメイクルームから出ていくのを、啓介はわざとらしいほど機嫌良く見送った。それから快の方に椅子をクルっと回転させる。
「えーっと、それで何だっけ。あ、ブーツ? 僕は使わないから全然ヘーキ。お気遣いありがとぉ」
朗らかな声で言ってのければ、快から遠慮のない舌打ちが返ってきた。啓介はそれを鼻で笑う。「おとといきやがれ」と心の中で毒づきながら。
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