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10-⑧

 スタジオを出て緑川と別れた啓介は、何かに追い立てられるように電車に飛び乗り渋谷へ向かった。駅に着くなり壁画前に腰を下ろし、来る途中で購入したスケッチブックと色鉛筆を広げる。夕暮れ時でも相変わらず人通りは多く、サンプルには困らなかった。啓介は雑踏に目を凝らし、道行く人の服装を次々にスケッチしていく。  憑りつかれたように書き殴りながら、自分に足りないものばかりを考えた。  今まで好きな服しか着てこなかった。興味のあるものしか選んでこなかった。そんな偏りがあっては、いずれ早々にアイデアは枯渇する。  今日、快の洗練されたセンスを目の当たりにして思い知った。  自分は圧倒的に知識が薄く、応用が利かない。なんでもっと早く気付けなかったのかと、漠然と過ごして失った時間を嘆きたくなる。  少しでも参考になりそうな着こなしを、啓介は黙々とスケッチブックに描き留めた。敢えてショップではなくこの場所を選んだのは、生きたコーディネートを見るためだ。  ずっと追いかけられているような焦燥感があったが、ふと自分が追いかけている立場だったと気づく。この居ても立っても居られない感覚は、焦りではなく飢餓に近いのだ。  もっと遊び心を。既成概念に囚われない柔軟性を。バランス感覚を磨け。変幻自在を手に入れろ。  足りないものを端から喰らっていくようなつもりで、一心不乱に筆を走らせた。こんなことに意味があるのか解らないし、酷く遠回りをしているような気もする。それでも何かせずにはいられない。    やがて行き交う人の輪郭がぼやけ、服が見えにくくなって目を擦る。ふと気づけば、周囲はすっかり暗くなっていた。啓介はそこで初めて手を止めて、今まで描きとめたスケッチブックを見返す。ページが足りなくなって隙間にまで描き込んだので、白い部分がほとんどない。  啓介は前髪を払いながら顔を上げ、はぁっと深く息を吐きだした。  家に帰ったら、気に入ったデザインをまた別の紙に書き写そう。永遠がしていたように、雑誌を切り抜いてスクラップブックを作るのも良いかもしれない。  立ち上がった啓介は、出来る事は他にもないか考えながら、ふらふらと駅の改札に向かった。何をすればいいのか解らないのに、今のままでは駄目だと言うことだけは解る。 「正解が見えなくて、内側から膨らんだ不安が自分自身を食い破ろうとする」と千鶴は言っていた。なるほどこういうことかと、納得しながら唇を噛む。 「思い付くことは全部やろう。だって千鶴の仇をとらなきゃね」  今更ながら、呪いのような励ましの言葉を有難く思う。早速沈みそうな心を支えてくれた。  電車に乗り込みドアにもたれながら、窓の外をずっと眺めた。家に近づくにつれ、駅と駅の間隔は広くなり、灯りの数が減っていく。相変わらず胸の中は混沌としていたが、窓に映る自分の顔はギラギラしていた。  途中、直人から「メシ食いに行こう」とメールが来たので断りの返信をする。今はとにかく時間が惜しい。  後になって、最近自分の身に起きた出来事を直人にきちんと説明すべきだったと悔やんだが、この時はまだ新しい挑戦のことで頭がいっぱいだった。

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