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第2話

 学校から自宅に戻るまでの間、相変わらず妙な気配があったものの、鵺の襲来はなかった。やはりあれは気のせいだったのだろうかと訝しみながら、自宅の門をくぐる。  かすかに結界が反応する音がした。けれどハヤは気付いていないようだ。いつもどおり門をくぐって右手にある注連縄が掛けられた就律岩(じゅりついわ)に礼をしている。  それを見ながら玄関の引き戸を開ける。ふと気配がして前を向くと、上り框におばあ様が正座をしていた。横にはおばあ様が祓師としての仕事をする際に用いる、木製の薙刀を携えている。いつの間にか俺の横にいたハヤが、俺よりも先にひっと引き攣った声を上げた。 「ただいま戻りました」  おばあ様は険しい表情を崩そうとしない。なにを言うわけでもない。  門限はまだ過ぎていないし、なにか悪さをした覚えもない。なにか重要な話でもあるのだろうか。俺はおばあ様に頭を下げた。 「今日は生徒会の仕事もなかったので、早めに戻りました」  それはおばあ様の欲しかったセリフではなかったようだ。どこか呆れたような息を吐いた。 「倫音さん、なにか仰ることがあるのではありませんか?」  厳しい口調でおばあ様が言う。俺には特に思い当たる節がない。 「いえ、特には」  本当になにも思い当たらない。不意に固く大きな音がする。おばあ様が薙刀の柄を床に叩き付けたのだ。 「ならばなぜ、あのような不吉な者を引き連れているのです?」  俺は首を傾げた。不吉な者? ハヤはおばあ様には見えないはずだが。そう思った時、表から何者かの足音が聞こえてきた。 「下がっていなさい」  おばあ様が薙刀を構え、上り框を降りる。御年72歳の動きではない。慣れた動きで下駄をはき、玄関の戸を張り明け、薙刀の切っ先で空を切った。 「下がりなさい、この不届き者めが!」  おばあ様の声から少し遅れて、聞いたことのない叫び声が上がった。声が上がると同時に、人間の姿だったそれが、一枚の紙切れに変わり、はらりと地面に落ちた。おばあ様はそれを下駄で踏みつけると、深い息を吐いた。 「倫音さん」  じろりと俺を睨み付け、おばあ様。思わず居竦んだ。おばあ様の迫力は半端ではない。自然と背筋が伸びる。叱責されるかと思ったが、おばあ様はふうと息を吐いて、玄関の戸を閉めた。 「今宵は枕元に靑鈍を置いてお眠りなさい。あのように低級な式紙の気配にすら気付かぬなど、修行が足りません」 「は、はい、すみません、おばあ様」  さっきの不穏な空気の正体はそれだったのかと内心思う。俺の足元ではハヤが土下座をし、おばあ様に必死に謝っているが、おばあ様は素知らぬ顔で上り框に腰を下ろし、下駄を脱いだ。  靑鈍とは、上月家に伝わる尼木保全が所有したという刀・靑鈍無雲(あおにびなぐも)のことだ。短刀ではあるものの、切れ味は凄まじく、その名の通り、雲ですら切り裂き跡形も残さないという逸話がある。靑鈍には人が切れない。何故そのような逸話があるのかは、以前ハヤから聞いたことがある。  靑鈍は名のある将に使える祈祷師や呪術師が放つ呪いを切り裂くための刀だったのだそうだ。南条晴賢が懇意にしていたある刀工に作らせ、尼木保全に帯刀させていた。これは両親の死後、俺が元々住んでいた家の蔵から発見されたのだ。もし父があの時、これを帯刀していたら、死なずに済んだのではないかとさえおばあ様が言っていた。俺が靑鈍を枕元に置いて眠るのは、そういう理由がある。  おばあ様はすたすたと台所へと向かっていく。そしてぴたりと足を止め、振り向いた。 「倫音さん、今日の御夕食は鯖の味噌煮ですが、よろしいですか」 「は、はい。頂きます」 「では、御仏前にお願いします」  言って、おばあ様が台所へと入って行った。綺麗な顔をしているおばあ様にあのように凄まれたら怖いを通り越して寧ろ恐ろしい。鵺ですらおばあ様を見たら逃げてしまうのではないかと思うほどだ。俺はおばあ様に言われたとおり台所に向かい、いつものように御膳を受け取った。  御膳は仏間にある仏壇前に置く仕来りになっている。上月家のご先祖様と、そしてハヤの為のものだ。ハヤは鯖が好物らしく、俺の横でにおいを満喫している。 『ううむ、よい薫りだ。初音殿はほんに割主烹従に堪能ですな』 「そうでしょう、俺の自慢のおばあ様ですから」    ハヤが笑う。俺は仏壇の前に正座をした。香を焚き、線香に火をつけ、それを線香差しに入れる。手を合わせ、いつものように立ち上がった時だ。また、妙な気配がした。  ピリリと張り詰めたような感覚だ。さすがにハヤも気づいたらしく、気配のする方向を見た。 『珍しいですな』  ハヤが言う。おばあ様の知人が張った結界に守られているこの家の中でさえ気配を感じることは殆どないからだ。 『今宵は私も帯同致します』  いつもならこの仏間でハヤとはお別れだ。ハヤは仏間にある仮の位牌で休み、朝俺が香と線香を焚きに来た際にまた俺に同行する。15の年、ハヤがそう決めた。15歳は昔でいう成人だ。ハヤなりに俺のプライベートを気にしてくれているらしい。 「靑鈍にハヤの御加護か。それならどんな鵺も途端に逃げ出しそうですね」  ハヤは俺に深く頭を下げた後、いつものようにふわりと浮いて、共に仏間を後にした。 ***  おばあ様の作る鯖の味噌煮はおいしかった。ハヤの言うとおりおばあ様は料理上手で、近所のおばあさんたちや、奥様方が集まって、週に一度料理教室みたいなことまでやっている。それ以外は殆ど俺の世話か屋敷の切り盛りをして下さっている為、俺には頭が上がらない存在だ。 「おばあ様、お先に休ませて頂きますね」  おばあ様の部屋の外から、障子越しに声を掛ける。すっと障子が開いた。おばあ様は既に浴衣に着替えている。いつもは髪を纏めているが、白髪交じりの髪を横で一つに結わえているから、雰囲気が違う。  おばあ様は静かに頭を下げ、俺に座るよう指示した。おばあ様の部屋に入り、障子を占める。正座をした俺のほうに風呂敷に包まれた広蓋(ひろぶた)を手で寄せた。 「出来上がり次第届けようと思っていました。このような姿でお渡しするのは不作法ですが、お受け取り下さい」  おばあ様の口調はいつも以上に丁寧だった。俺は広蓋を自分のほうへと寄せ、風呂敷を開いた。掛け袱紗を横に避け、広蓋の上にぽつんとあるものに視線を落とした。南天紋の着物の生地で作られたお守りだ。俺がそれを手に取ると、おばあ様はすっと姿勢を正した。 「倫音さん」  突然名を呼ばれ、俺は慌てて返事をした。 「先日からお話ししているとおり、明日から私は一週間ほど暇を頂きます。その間何事もなきよう、それを渡しておきます。外に出る際には靑鈍を帯刀し、くれぐれもご油断召されぬように」 「わかりました」  軽く頭を下げた俺の横で、ハヤがひっと喉を鳴らした。 『は、初音殿は、私が見えておられるのだろうか』  震える声でハヤが言ってくる。 『いま目が合うた拍子に睨まれました』  思わず笑いそうになったが、俺は寸での所で堪え、おばあ様に頭を下げた。 「ご心配ありがとうございます。ではおばあ様、お休みなさい」 「お休みなさいませ、倫音さん」  俺は静かに部屋を出て、障子を閉めた。少し間を置いて立ち上がり、自分の部屋へと向かう。その間にハヤの焦った声を思いだし、吹き出した。 『倫殿、そのように笑わないでくだされ!』  ハヤが不満げに言ってくる。 「だっておばあ様に見えているなんて言うから」 『し、しかし、本当に目が合うたのです!』 「いままでだってハヤがおばあ様に叱られるようなことは度々あったでしょう。偶然だよ、偶然」 『むう‥‥。それならば、いいのですが』  解せないと言わんばかりにハヤが言う。俺は自室に戻り、部屋の電気をつけた。枕元には刀掛けに掛けられた靑鈍がある。俺は靑鈍を手に取り、鞘から刀身を抜いた。  靑鈍の刀身は、名の通り少し青みがかって光って見える。刃毀れひとつない。指先で切っ先を押し付け、指の腹を見たが、俺の指には傷一つ入っていない。 「本当に切れないようになっているんですね」 『妖を斬る為に作られた刀故、人は斬れませぬ』 「でも殺傷能力はあるんですよね? 銃刀法違反にならないんでしょうか?」 『む‥‥。そ、そのような法は、私には解りかねまする』  ハヤはすごすごと俺の足元に回り、正座をした。 『畏れながら、そろそろ休まれませんと、明日に響きます』  ハヤに言われ時計を見上げると、0時をとうに過ぎているのに気付いた。俺は慌てて靑鈍を鞘に戻し、刀掛けに掛けると、部屋の電気を消した。 「おやすみ、ハヤ」 『お休みなさいませ、倫殿』  俺はごそごそと布団に入った。俺の足元ではハヤが胡坐を掻き、腕を組んで目を閉じている。ハヤは魂だけの存在だ。眠るといっても本当に眠るわけではない。  なんだか懐かしい。15歳になるまでは、いつもハヤがこうして俺の枕元で護るようにそばにいてくれた。それがとても心強かったことを思いだす。俺はおばあ様から受け取ったお守りを懐中に仕舞い、目を閉じた。

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