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第3話

 翌日、俺が目覚めたときにはすでにおばあ様はいなかった。  学校がある日は6時半には起きて、毎朝30分居合の稽古をするのが日課だ。今日はいつもより10分ほど早く目が覚めたから、今日こそはおばあ様を見送ろうと思っていたのにだ。  おばあ様は月に一度、藍川から電車で片道2時間以上かかる黒滝村に出かけていく。おばあ様のご実家がある村だ。そこに住んでいる知人の面倒を見にいくということは聞いているが、それ以上深いことは聞いたことがなかった。いや、気にしたことがなかった。けれども今日だけは、なぜかおばあ様に会っておきたかった。それが気掛かりで、いつも以上に歴史の授業に身が入らなかった。 「では、今日の授業は終わりにしまーす」  のんびりとした口調で羽曳野が言う。いつの間にか授業が終わっていたようだ。俺は意識が逸れていたことを気取られないように努めながら号令をかけ、羽曳野に礼をした。  どのような授業内容だったのか、さっぱり聞いていなかった。教室内が妙に騒ついているのを不思議に思いながら、小声でハヤに尋ねる。 『今日は主に殿の家臣である、私や南条、丹生のことを言っておられました』  なるほどと思う。丹川がやけにはしゃいでいるからだ。思い返せば、昨日羽曳野が丹川に丹生氏の話を聞かせてやると言っていたのを思い出した。 『人の目というものは真に不思議なものですな。私と南条は確かに衝突は多かったものの、そこまで仲が悪いわけではなかったのですが』  ぽつりと、ハヤ。家老同士ということもあってか、俺たちは志摩と南条は犬猿の仲にあったと聞いて育っている。その犬猿の仲である南条が志摩の介錯を務めたという部分が美談として残っている程だ。  ハヤの言うとおりだ。誰もその美談を疑わない。見聞きしたものはいないというのに、それが当たり前のように逸話として残っていることが不思議だった。 『それどころか、酒を酌み交わしたり、一緒に月見をしたり、懇意にしておりました。なにせ南条の嫁は私の末の妹ですから』  そう言われて、俺は思わず『そうなんですか?』と尋ねてしまった。幸いなことにクラスメイト達は勿体ぶる羽曳野にブーイングをしている最中で、周りには聞こえていないようだったが。 「一度史料館に行って調べてみるといい。南条と志摩の意外な関係が解っちゃったりするぞ」  羽曳野が笑いながら言う。俺はそれをたったいま逸早く知ってしまった。思わず苦笑が漏れる。 『末の妹は身体が弱く、とても後継を成せるような状態ではなかったのですが、それでもよいと南条が貰ってくれたのです。羽曳野殿の講義内容からしても、藍川の住人は南条にあまり良い印象を持っていない様子。なんとも歯痒いことです』  寂しげにハヤが言う。南条の話は何度かしてくれたことがある。歳下だというのに自分に食ってかかってくるような粗忽者だけれど、視野が広く状況判断も良い。自分が没した後に南条が残ったからこそ藍川が残ったといっても過言ではないと話していた。  それほどの人だと言うのに、天木亡き後は家臣団とは縁を切り、関白の手下として没したことが関係しているのだと思う。誰に尽くすかではなく家を残すということを鑑みれば、妥当な判断ではなかったのかと俺は思う。なかにはそう唱える学者もいるが、元天木領への締めつけが厳しかったこともあり、いまいち評価に繋がっていないのだ。  けれどどの説も憶測に過ぎないじゃないかと思う。その時に忠実に書かれた資料は乏しい。南条に関する資料は、藍川でも発見が少ない。どの人物が猛将だとか、誰と仲が悪かったとか、いつ亡くなったかと言うのはよく聞かれるが、姉妹がどこに嫁いだとか、そういう話はきちんと調べなければ出てこない。南条に至ってはそういう資料すらほとんどない。だから羽曳野の授業は貴重な話を聞くチャンスなのだが、脱線が多すぎて焦ったいのだ。丹川は羽曳野にケチをつけて、別のクラスメイトに史料館に行くぞなんて声を掛けている。  丹川は他の授業では不真面目極まりないのに、歴史の授業となると人が変わったかのように熱心になる。教師たちは丹川のことをよく思っていないが、俺にとって丹川は頼りになる存在だ。ふと丹川と目があった。 「なあ、今日の放課後、上月も史料館に行かないか?」  丹川が声を掛けてくる。 「ごめん、俺は居合の稽古があって」 「マジか? じゃあ今度いつ空いてる?」 「えっと‥‥。土曜日、なら」  週明けの月曜の夜、おばあ様が戻ってくる。日曜日には布団を干しておばあ様を迎える準備をしなくてはならないが、土曜日ならまだなんの予定もない。丹川はにっと笑うと、俺の肩を叩いた。 「約束な! おまえいっつもはびっきーの授業聞いてないし、俺が歴史に興味持たせてやるよ」  興味がないわけではなくて、生き字引からすべてを聞かされているのだけれど。正確に言えば生きてはいないが。俺は空笑いをして、よろしくと伝えておいた。 ***  居合の稽古のあと、俺は師範から居合の発展の為にと披露会の話を持ち掛けられた。俺は未成年だからと丁重にお断りしたが、かなり粘られてしまい、すっかり遅くなってしまった。もう19時半だ。もしおばあ様がいたら、戻った途端に物凄い目で睨まれること必至だろう。 『おやりになればよいのに』  ぽつりとハヤが言う。 『そうすれば数々の名刀を拝見できたかもしれないのに』  チャンスなのにと、ハヤが恨みがましく言ってくる。俺はハヤを横目に見て、周囲に人がいないことを確認した。 「そうは言うけれど、東京に行くんだよ? 怖くて行けるわけがないじゃない」 『江戸周辺にはいまも関白の影響が色濃く残っておる様子ですからな』 「よそで寝るのは修学旅行の時に懲りたよ」  俺がうんざりしたように言ったら、ハヤが『そうですな』と苦笑を漏らした。  修学旅行のとき、霊感があると言っていたクラスメイトが、落ち武者の霊を見たと大騒ぎをした。それは紛れもなくハヤのことだ。いつもならハヤを目にする人はほとんどいないのだけれど、どうやらそのクラスメイトはかなり霊感が強いらしい。ハヤの姿がぼんやりとだけれど見えたらしく、俺に憑りついているだのなんだのと騒ぎ立て、旅館側から注意を受けてしまったのだ。あれ以来俺は不特定多数の人がいる場所に行くのがあまり好きではなくなった。  ただでさえ鵺の脅威に怯えなくてはならない。藍川島を出たらハヤの力が弱くなるというわけではないが、鵺の陰力は場所や人口の多さで左右される。不特定多数が集まる居合いの披露会に出ている最中に鵺が襲ってこないとも限らない。用心することに越したことはないのだ。 「俺が自分で鵺を退治できるようになれば、披露会に出られるかもしれませんね」  ハヤが驚いたように目を見開いた。 『それは良いお考えですな』 「本当にそう思っているなら、おばあ様がいない間に」  そこまで言いかけて、急に喉の詰まりを感じた。  声を出そうにも声が出せない。焼けつくように熱い。頬に、首筋に鋭い痛みが走った。 『倫殿?』  ハヤが不思議そうに尋ねてくる。いままでなんともなかったのに、首にある痣がずきずきと痛み始めた。俺はとっさに首筋を押さえた。 『どうなさいました?』  なんでもないと告げようとしたが、やはり声が出ない。首を横に振り、気取られないようにしたが、ハヤが心配そうに覗き込んできた。  すごい汗だ。自分でもわかる。じっとりと背中が濡れていく。冷や汗をかいたのは久しぶりだ。尋常ではない。  取り込まれてしまいそうなほど強い憎悪の塊のようなものが近づいてくる。けれどハヤは気付いていないらしい。鵺の気配ではない。自分で祓えはしないが、そのくらいはわかる。  前から人が歩いてくるのが見えた。黒髪の少年だ。かなり目つきが悪い。この辺りでは見ない学ランを着ている。彼と目が合った途端、腹が引き裂かれそうなほどずきんと痛んだ。思わずうめき声が上がる。 「おい」  人の声ではない。気配だけで分かる。この声の主に触れてはならない。本能的に感じ取り、俺は痛む腹を押さえながら、彼から逃げるように距離を取り、駆け出した。 『倫殿!?』  ハヤの慌てたような声が遠くなる。幼い頃から鵺に狙われてきたこともあり、逃げ足だけは早い。万全ではないとはいえ、それが幸いだった。  俺は無我夢中で走って駅前のビル街を抜け、やや入り組んだ造りになっている居住区の裏路地に隠れた。息が弾む。彼と距離を置いたというのに、腹と首がずきずきと痛んだ。その痛みのせいで息の根が整わない。酸欠のような症状に襲われ、壁に凭れかかりながら蹲った。  ぽたぽたと額から汗が落ちている。こんなに汗を掻くことなどなかった。俺は袖で汗を拭い、口元を押さえた。いまのはなんだったんだ? 何故逃げた? 自分でも理解のできない行動だった。 『倫殿、どうなさいました?!』  慌てた様子でハヤが尋ねてくる。俺は首を横に振るだけにとどめた。いま声を出したら、絶対に自分の声が震えていると思ったからだ。ハヤが心配する。 『倫殿?』  不安げにハヤが言う。ハヤの顔は見えない。視界が歪んでいるのは、自分が泣いているからだろう。どうしてだか分らなかった。ただ首を振るだけの俺の頭に、そっとハヤの手が触れた。感覚はない。ただ、そう思えた。  ハヤが何度も俺の背を擦ってくれる。人の手のぬくもりなど感じない。昔からハヤは俺になにかがあるたびにこうやって慰めてくれていた。  どのくらい経っただろうか。腹の痛みが漸く治まった。俺ははあっと深い息を吐いて、膝に顔を埋めた。  ただ、怖かった。殺されるかと思った。  何故初対面の彼にそんな気持ちを懐いたのかはわからない。俺は蹲ったままで荒い息を整えることしかできなかった。 *** 『落ち着かれましたか?』  ハヤが声を掛けてくる。俺はあの後自分で家に戻ったのだが、正直に言ってほとんど覚えていない。頭が真っ白だった。風呂に入り、夕飯も食べずに布団に潜り込んだ。ハヤに心配を掛けまいと思っていたのだが、これでは逆効果だ。俺はもそもそと布団から顔を出し、ハヤを見た。 「すみません、心配させて」  ハヤが首を横に振る。 『口惜しゅうございます。私に体さえあれば、食事を御作りすることも、倫殿をお守りすることもできるのに』 「傍にいてくれただけで、十分です」  ハヤは俯いている。なにか思案しているように眉を顰めた。 『初音殿が早うお帰りになられるよう、殿にお願い申し上げてきます』  言って、ハヤが姿を消した。ハヤは幽霊なのに、墓に赴いてはご先祖様にいろいろとお願いをしている。その姿を想像して笑ってしまった。  そういえば以前、墓で出会った別の幽霊に、『毎日御精が出ますな』と話しかけられたと言っていた。もうすっかり御馴染になっているらしい。  春先に雑誌のスクープにもなったが、観音寺の裏手にある桜の木の周辺で無数の人魂が写真に写っていたそうだが、あれはハヤとハヤの同胞たちが久しぶりに花見を楽しんだと喜んでいた数日後のことだった。  またスクープされなければいいけれど。布団の中で笑いながら、俺は靑鈍を手に取った。  靑鈍は南条が作らせ、ハヤが祈りを込めている。刀身に掘られているのはハヤの字なのだそうだ。端正で整った字面だ。ハヤの実直な性格をよく表しているように思える。俺はその字を指でなぞり、靑鈍を鞘に納めた。

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