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第4話
首や腹の痛みは一晩寝たら治った。けれど痣のあとが色濃くなっているように感じて、どうにも安心できずにいた。鵺の襲来はあれから一度もない。不気味なほど静かな日々だった。
おばあ様のいない1週間がここまで心細いと感じたのは、今回が初めてだ。毎日学校には来ているけれど、まったく授業が身に入らない。今日など時間割とはまったく異なる教科書を用意していた。たまたま自習になったから事なきを得たが、こんなことはいままで一度もない。
遠くの空が黒ずんで見える。俺はそう感じたのだが、ハヤはきょとんとして首を傾げていた。少し前にすれ違った少年と出会った後から、なにかがおかしい。鵺や得体の知れないものへの気配に関してはハヤとは常に共感覚のようなものがあったというのに、微妙なずれを感じていた。
「大丈夫、倫。疲れとんじゃないん?」
体育の授業中、気分が悪くなって木陰に蹲っていた俺に、翔(翔)が声を掛けてきた。
疋田翔(ひきた かける)はやや小柄ながらかなりスポーツに長けている。持久走は得意中の得意のようだ。体力馬鹿だと自負する丹川ですらグラウンドに大の字になっているというのに、翔は汗を掻いてはいるものの、けろりとしている。短髪で、少し太めの眉毛に、意思強い目。鼻立ちも割と高く、引き締まった顔をしている。色が黒いせいもあり、小学校の頃は『黒シバ』という綽名で呼ばれていた。おばあ様同士が懇意にしているため、俺と翔は幼い頃から比較的仲が良かった。
「大丈夫、ありがとう」
翔が持ってきてくれたアクエリアスを受け取り、一口飲む。今日は暑いからと継ぐと、翔はにっと笑った。
「習い事に生徒会に部活に、倫は大変だな」
「生徒会は殆ど押し付けられたようなものだもんな」
別の声が聞こえてくる。丹川だ。丹川は翔のアクエリアスを引き取ると、ごくごくと音を立てて煽った。
「あー、生き返る。くっそ、笈川(おいかわ)の野郎。虐待教師っつって騒ぎ立ててやっか」
笈川は体育教師だ。熱血を地で行く。心頭滅却すれば火もまた涼しなんて、かの武田信玄のように猛々しく吠え、グラウンド10週を強要してきた。すごいのは自分も一緒に走り、完走したということだ。涼しげな顔で、ゴールをしてきた生徒にアクエリアスを手渡している。どうなってるんだと突っ込みたいが、基本的に自由な校風故に校長はなにも言わないだろう。そもそもこうやって持久力を鍛えているのは、冬の行事に備えているからだ。
12月28日は尼木保全の誕生日だ。誕生祭として模擬合戦が行われる。その模擬合戦に俺たち3年生が駆り出されるのだ。通常なら受験や就職活動で忙しい3年生はそう言った行事への参加が免除されるのだろうが、強制ではないので、出たくない生徒は出ない。ただ、そのための体力づくりには全員参加のスタンスだ。
俺はアクエリアスをもう一口飲み下し、木の幹に凭れ掛かった。
「そういや、倫とこのばあちゃん、3日くらい前からおらんのやろ? うちのばあちゃんが言ってた」
翔が言う。俺が頷くと、丹川がなにか悪戯を思いついたように笑った。
「なあ、倫のうちに行ってもいいか?」
「えっ?」
「いまひとりなんやろ?」
俺は翔と丹川の厚意をどう断ろうかと迷った。いや、厚意と言うよりは好奇心だろう。丹川とは高校に入ってからなにかと接点があるが、家に招いた記憶がない。
「いい、けど」
気がかりなことはたくさんあるが、いまは一人で過ごしたくないという気持ちのほうが勝った。かなりの間を置いて俺が言ったら、翔と丹川がぱんと両手でハイタッチした。
「よっしゃ、倫とこ行くの久々じゃー」
言ってしまったと若干後悔する俺の横で、ハヤが渋い顔をしている。丹川が浜北を誘い始めたからだ。
浜北は修学旅行の時にハヤの姿を目撃している。正直なところ、俺は浜北は少し苦手だった。浜北はヘロヘロになってグラウンドに蹲っている。線が細く、クラスで一番細身なのではないかと思うほどにひょろひょろだ。若干くせのある髪質なのか、栗色の髪がふわふわしているからすぐにわかる。
『倫殿。私は御学友が帰られるまでの間、位牌に隠れております故』
御心配召されるなとハヤが言う。俺は小さく頷いて、頼むと唇だけで呟いた。
***
「うおーっ、すげえ!」
門をくぐるなり、丹川が興奮したような声を上げた。丹川の横で翔がどこか満足げな顔をしている。そして俺の肩を抱き寄せ、笑った。
「すげえじゃろ、倫は家柄が由緒正しいからな」
「藍川はこういう家に住みたがる人がどんどん移住してきてるからなぁ。すげえわ、マジで江戸時代の屋敷みたい」
「古いだけだよ。そこかしこ建付けが悪くなってるから、そろそろ手入れをお願いしないといけないし」
「いやあ、これは歴史情緒溢れすぎじゃわ」
丹川がうっとりしたように言う。後ろからこそこそと着いてきていた浜北は、怖々と門から覗いている。
「ひっきー、なんもおらん?」
「ひっきーやめい。大丈夫って。浜北怖がり過ぎやわ」
若干顔色が悪い浜北に翔が突っ込みを入れる。浜北はおそるおそる門をくぐった後、びくりと肩を跳ねさせた。
「いや、なんかおる!」
翔と丹川が「はあっ?」と声を尖らせた。
「絶対なんかおるって! だって見てよ、空がおかしい!」
浜北が言って、空に向けて指差した時だった。門の外から、ぱりぱりと結界が反応している独特の音が聞こえてきた。浜北は竦みあがって、勢いよく玄関の戸を張り明け、中に入って行った。翔と丹川は不思議そうな顔をしている。それもそのはずだ。結界が反応している音は、普通の人には聞こえないのだ。
ハヤと顔を見合わせた。浜北は霊感が強いものの、良いものと悪いものの区別がついていないようだ。極端に怖がりだということもあるのか、まさか結界にまで驚かれるとは思わなかった。
玄関に入ると、浜北は青い顔をしてうずくまっていた。細い肩が震えている。それを心配そうに翔と丹川が覗き込んだ。
「大丈夫かよ?」
浜北が震えながらも頷く。ふたりはなにも感じていないようだ。浜北にはきちんと話しておいたほうが良さそうだと感じた俺は、浜北に声をかけた。
「浜北、ちょっといい?」
浜北は青い顔をして俺を見上げた。
「丹川、翔、悪いけど隣の客間にいてくれる? 浜北と一緒にお茶でも入れてくるよ」
そう言って、俺は浜北を連れて台所に向かった。浜北は俺のブレザーの裾を握ったままだ。まだ顔が青い。若干震えているのが見て取れる。
「驚かせてごめんね」
浜北は微かに頷いた。
「おばあ様が結構霊感が強い方で、何事もないようにってそこかしこに御札を貼っているんだよ。だからそれでなにか感じたんだと思う」
「そう、なんかな?」
「俺はもう慣れているけど、霊感が強い人はやっぱり妙に思うみたい」
俺が言うと、浜北は漸くほっとしたらしい。緊張が解け、恥ずかしくなったのか、青かった頬にほんのりと赤みが差した。
「ご、ごめん、上月。俺、昔なんか変なのに襲われて以来、そういうのが怖くて怖くて」
「そういうの?」
「口がすげえ裂けた、虎みたいな猿みたいなよく判らん生き物に襲われたことがあるんよ。壁際まで追い詰められたけど、俺のにおいを嗅いで、間違えたって逃げてった」
「間違えた?」
「2匹いたうちの1匹が言ったんよ、そいつじゃねえって。誰かに間違われて追っかけられたみたいなん」
そう言って、浜北はふうっと息を吐いた。
「そういえば、謝らなきゃいけないことがあって」
溜め息のあと、浜北がそう切り出してきた。
「あの落ち武者の霊、上月の守護霊さんだったんじゃな」
「えっ?」
俺は思わずあたりを見渡した。ハヤはいない。慌てた俺を笑って、浜北が言う。
「教室でちょろちょろしとるの、よく見かける。特にはびっきーの授業を楽しそうにしとってさ、俺、笑い堪えるの大変なんよ」
「そう、だったんだ」
「声までは聞こえんけど、なんとなく。結構位が高いお武家さんやなーって思いながら見てた」
浜北はくすくす笑って、グラスをお盆に乗せた。
「あんなにはっきり見えたの初めてなんよ。他の人の守護霊さんとかも見えたら、すごいやろな」
俺はそうだねと返すだけに止めた。浜北が用意してくれたグラスに冷茶を注ぎ、ガラス状の急須ごとお盆に乗せる。それを客間に運ぶときには、浜北はすっかり元気になっていた。
「お待たせ」
浜北が襖を開けてくれる。俺と浜北の距離が少し縮まっていることに翔と丹川がどこか気色ばむ気配を見せ、笑いあう。俺が「なに?」と尋ねたが、ふたりは悪戯っぽく笑うだけだ。
「そんな笑うことでもあった?」
俺が尋ねると、丹川がにやりと笑った。
「うんや、なんもない。なんもないけど、浜北と倫が仲良さそうに戻ってくるから、ホッとしただけ」
「そうそう。浜北、ずっと倫のこと怖がっとったし」
「それは誤解やったって言ったやん!」
浜北が顔を真っ赤にさせて声を上げた。
「誤解であんだけ驚くかー? 霊が出た霊が出たって大騒ぎしよったくせに」
「そうじゃそうじゃ」
丹川が翔の口真似をして浜北を誘く。俺はそれに苦笑を返し、はいはいと軽くいなした。
「もう気にしてないから、浜北を揶わないでね」
それ以上は失礼だと二人に告げる。二人は顔を見合わせて、また笑った。
「もう、なんなん!」
「なんなんじゃないけ。ホッとしたんよ」
翔が言う。
「そうそう、ホッとしたんちゃ」
浜北はまだ納得しない様子だが、俺は二人に構わず冷茶を配り、お盆を畳に置いた。丹川と翔は仲が良い。二人ともが悪戯坊主のようなことをしでかす。クラスの中でも大人しい浜北がまだクラスに馴染んでいないからと声を掛けたのだろう。
翔は昔からそうだ。俺が両親を亡くして上級生に揶揄われたとき、誰よりも怒ったし、一緒に泣いてくれた。そこに丹川が加わると強引さが格段に跳ね上がり、今回のようなことになる。けれど微塵も鬱陶しいとか、困るとか、ネガティブな感情をいだいたことがない。むしろ心地よさを感じるほどだ。
「なあ、浜北。名前なんて言うん?」
唐突に丹川が尋ねた。浜北が答えるよりも先に、翔が非難の声をあげる。
「なんで知らんのん、もう7月なのに! 浜北旭(あさひ)やろ! そもそも出席番号お前の後ろやんか!」
「ふうん」
「ふうんて!」
適当すぎるやろと翔が吠える。
「じゃあ旭、俺のことはゼンでええよ。こっちはひっきーとか呼ばんと翔(かける)って呼んでええから。俺らクラスメイトやし、いい加減名前で呼び合おうや。倫もな」
翔じゃなくて黒シバでもええよと、丹川。浜北は『黒シバ』とつぶやいた後、ツボに入ったかのように笑い始めた。
「あははっ、本当にそう呼ばれとったん? ネタかと思いよった」
浜北は笑うといつもの弱気な表情とは一変して、とても幼く見えた。そう思ったのは丹川も翔も同じだったらしく、丹川は嬉しそうにはにかんで浜北の頭をぐしゃぐしゃと撫で回した。
「おまえ笑ってたら可愛いんじゃけ、あんまりおどおどした表情ばっかすんなよ。島はともかく、外の学校とかならソッコーいじめの対象になるぞ」
浜北あらため旭と翔が「外こわっ」と声を揃えた。
丹川は両親の仕事の関係上、小学校と中学校は島外の学校に通っていたらしい。幼い頃に何度か疋田と共に遊んだ記憶があるが、それは長期休暇には島に帰ってきていたときだったようだ。
「なあ、ゼンは外でも大丈夫やったん?」
旭が問うた。ゼンと呼ぶまでにかなりの時間を要したが、きちんとそう呼んだことが嬉しかったのか、丹川と翔が一層笑みを深ませる。
「俺がいじめられるタイプに見えるか?」
「見えんけど、なんかこう、めちゃくちゃお節介やん」
ふたりが少しの間フリーズする。まさかいきなりそう切り込んでくるとは思わなかった俺は、笑いを堪えるのに必死だった。
「えっ、あ、あのっ、へんな意味じゃなくてっ」
旭が慌てて弁明しようとするが、もう遅い。丹川と翔は旭をいじる気満々の表情でお互いが顔を見合わせた。
「ほんま違うんよ、悪い意味で言ったわけじゃなくて」
「ええってええって、わかっとる。どう見てもいじめっ子タイプのゼンが絡んできた時、マジで殺されるんじゃないかってくらいビビり散らしてたもんな」
「ち、違うよっ! いきなり話しかけてきたけビックリしただけで!」
「旭がおどおどしてビビり散らすから、笈川に睨まれそうになったやんか。頼むけえ怖がらんでくれ」
「怖がってないよっ!」
実際に旭と丹川が一緒にいると、そのつもりがなくてもそう見えてしまう。俺は丹川がいじめの類をするタイプではないことを知っているが、そう思われてもしかたがないほどタイプが違いすぎる。
「誰にどう見られようが、仲が良い姿を見せていたら、そのうち誰もなにも思わなくなるよ」
本当にそうだ。俺と丹川がわりとコミニュケーションをとること自体、クラスメイトから驚かれた。教師たちからもだ。自分で言うところじゃないが、絵に描いたような真面目と不真面目が一緒にいるのは、周りにしてみれば異質に見えるのだと思う。けれどクラス替えがあってから三ヶ月、いまではそれが当たり前になっている。だからそのうちに旭と丹川が一緒にいること自体が当たり前に映るだろう。
おばあ様には申し訳ないが、やはり俺はたまにはこうやってクラスメイトたちとの時間を過ごしたい。いつ鵺の襲来に巻き込まれるかがわからないから、敬遠していたが、正直心地よい。
いままでの生活が窮屈だと思ったことは一度もない。ほんとうにただの一度もだ。けれど翔たちとこうして他愛もない話をしていたら、おばあ様がいなくて不安だった気持ちがすっかり消え去ってしまっていた。
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