6 / 7

第6話

 どのくらい意識を飛ばしていたのだろうか。俺が目を覚ました時、ハヤが必死に逃げ回っているのが目に入った。  あの少年がハヤに攻撃を仕掛けている。応戦をしようにも、相手が生身の人間だからなのか、ハヤの攻撃が通じていない。一瞬で体ごと弾き飛ばされたのを見て、俺は慌てて体を起こした。 「くそ、逃げるなこの悪霊が!」  少年が勾玉のようなものを振り翳し、吠えた。 「万物の仕来りに逆らうものよ、流転の六道に還れ!」  少年が持っている勾玉が不穏に光った。あれをハヤに当ててはならない。そう思った途端、俺は無我夢中で少年を取り押さえていた。 「なっ!? おい、邪魔すんな!」 「ハヤ、逃げて!」 「はっ!? なに言ってんだ、あいつは‥‥!」  少年が慌てた様子で言った時だ。あれ程必死の形相で逃げ回っていたというのに、ハヤがぴたりと動きを止めた。少しの間少年を眺めていたかと思うと、ふわふわと降りてきて、少年の前に降り立った。 「てんめえっ、おれが勾玉だけしか使えねえと思ったら大間違いだ」  憎々しげに言ったあと、少年が俺の手を振り払い、刀印を結んだ。 「裂!」  少年が声を上げたと同時に、ハヤの周りに青白い糸のようなものが張り巡らされる。結界だ。それもこんなふうに目に見えるものは初めて見た。少年はおばあ様と同等の術師なのかもしれない。それならハヤが祓われてしまう。とっさに刀印を結ぶ手をほどこうと手を伸ばしたが、あっという間に距離を取られてしまった。すごい身のこなしだ。手馴れていると肌で感じる。 「ちょろちょろ逃げ回りやがって。念仏でも唱えやがれ」  ニヒルに笑いながら少年が言う。けれどハヤはなにやら感激したような様子で青白い糸を眺めている。その糸に手を伸ばす。青白い閃光が走り、ハヤの手を傷付けた。それを見てハヤは冷静でいてどこか悪戯っぽい笑みを浮かべた。 『就法を略して就具を扱えるとは、いやはや末恐ろしい』 「なにを笑っていやがる? とっとと成仏しろ、糞野郎」  言って、少年が人差し指と中指を揃え、斜めに印を切る。ハヤの着物の裾が揺れた。徐々に揺れが強くなる。それを見たハヤは慌てるどころかますます笑みを深めた。 「ちょっと待って下さい、この人は悪霊なんかじゃないんです!」  少年に掴みかかったが、すぐにその手を振り払われた。 『義兄の顔を見忘れたか、南条』 「はっ!?」  ハヤが言った途端、少年は声を尖らせた。怪訝な顔をしてハヤを睨む。 『その術は南条秘伝のものであろう。本来なら就律するまで術師が無防備になるが、確実に囚兵の動きを止めるもの。捕らわれた感覚をこの身で味わうことになろうとは思わなんだ』  暢気に言ってのけるハヤを見て、少年がより目を吊り上がらせた。 「死ぬ前に術師の正体を暴いてなんになる? 次の輪廻転生なんてさせねえほどかっくだいてやる」 『晴賢(はるかた)、私だ。志摩だ』  晴賢と呼ばれた少年は胡散臭そうに眉を顰めた。次の刀印を切る。ハヤを包む青白い光がぱりぱりと音を立て始めた。一気に周囲の圧が変わる。 「知らねえなあ」 『いやいや、私がそなたを見間違うはずなどない。そのにおい、過去を忘れているわけではあるまい?』  余裕の笑みを浮かべ、ハヤが言う。少年はただでさえ鋭い目付きを更に鋭くし、ハヤに構わず印を切った。 「消え去れ」  背筋が凍り付きそうなほど冷徹な笑みだった。けれど青白い糸はやがて輝きを失い、小さな音を立てて地面に落ちた。  失敗したのか? それともハヤの就法が上回ったのだろうか? とっさにハヤに駆け寄ると、ハヤは手を握ったり開いたりして体の感覚を確かめているところだった。 『人の話を聞かない悪癖は正せと申したはず』  少年は舌打ちをすると、うるせえと面倒くさそうな声色で言いながらガシガシと頭を掻いた。 「滞神(なずちがみ)様には効かねえってか? 秘伝の就具ってのはとんでもねえ役立たずな道具だな」  言って、地面に落ちている数本の針が糸でつながれたものを拾い上げた。漸く解放されたハヤは、やれやれと言わんばかりの表情でふわりと宙に浮いた。 『相変わらずでなにより』 「ふん、未だに浮かばれねえとは、藍川の猛将殿の名も地に落ちたもんだな」 『いやはや、面目ない。しかし、そなたにまで会い見えるとは思わなんだ』  ハヤは随分と親しげに話している。さっきまではあれだけ痣が疼いたというのに、腹と首の疼きはすっかり消えてしまっていた。あれはいったいなんだったのだろう? そう考えていた俺を、少年の目が射抜いた。思わず引き攣った声が上がる。猛禽類のように鋭い目だ。このまま殺されやしないかとドキドキしながら居竦む俺を、ハヤが笑った。 『倫殿、そのように警戒なされなくともよい相手。この者は南条晴賢の魂を継承する者。我々の味方にございます』  ハヤが言った途端、少年が尖った声を上げた。 「はあっ? 勝手に決めつけてんじゃねえ」  ハヤに唾を吐きかけん勢いだ。けれどハヤは愉快そうに笑うだけだった。 『呪鵺を祓ってくれたではないか』 「うるせえ。あれは一般人を巻き込んでんじゃねえかと思ってやっただけだ。てめえだって解ってたら誰が助けるか」  言って、少年は勾玉を首に掛けなおすと、俺をじろりと睨んだ。 「あんた、とっとと家に帰れ。この分だとあと数匹は出てくるだろう。次も雑魚が出てくるとは限らねえからな」 「は、はい」  翔よりも小さな体だが、態度も迫力もゼン以上だ。ベリーショートのウルフヘア。鋭い目付きに三白眼。目つきが悪いところを除けばあどけなさが残る。色白でか細い体つきは、少年そのものだ。学ランを着ていることから察するにまだ中学生くらいだろう。少年は立ち去ろうとしたが、なにかを思い出したようにこちらを睨んだ。 「おい、志摩。いまのおれは南雲格(なぐも いたる)。罷り間違っても南条の名で呼ぶな」 『承知した』  ハヤがどこか嬉しそうに言う。南雲格と名乗った少年は再度ハヤを睨むと、舌打ちをながら踵を返し、闇夜へと消えて行った。呆然として二の句を告げない俺をハヤが呼ぶ。ハヤはどこかホッとしたような面持ちで俺に近付いてきた。 『帰りましょうか、倫殿。格殿の言うとおり、いつ何時鵺に狙われるかわかりませぬ』  いままでの出来事に頭がついていかない。なぜ彼はハヤを知り、覚えている? なぜ俺はなにも覚えていない? きっとハヤはなにかを隠している。そう思ったが、俺は敢えてその疑問をぶつけなかった。 ***  急いで家に帰り、俺は先に風呂に入った。疲れた体を休めたかったからだ。  湯船につかりながら首の痣に触れる。少しも痛みがない。しかし、腹にある痣はやはり以前よりも色が濃くなっている。この傷の正体を俺は知らない。生まれつきだとおばあ様が言っていた。けれど明らかに傷の痕なのだ。自分ではどこか怪我をした記憶がない。俺のアルバムは生まれた時から両親が亡くなる7歳までの間、様々な写真が2日と跨がずに撮られている。けれどどの写真にも頬と首の傷跡など見当たらない。落石事故に巻き込まれた際の傷でもない。どうもなにかが変だと感じた俺は、ハヤに問い詰めることにした。  風呂から上がり、浴衣に着替えた俺は、部屋にハヤを呼んだ。ハヤは俺がいつも身に着けているメノウに装飾を施した根付けか、仏間にある仮位牌を宿にしている。守護霊と雖も亡くなって年月が経ちすぎているせいか、偽宿と呼ばれるものに宿らなければならないのだそうだ。俺が根付けを身に着けている間は傍にいられるものの、身に着け忘れたり、根付けを落としてしまった時は、その場所で過ごさなければならないが、幽霊故に仏間に置いてある仮位牌に戻ることはできるらしい。  とてもいまさらだが、俺はどうしてハヤがそういう立場になっているのかを聞いたことがなかった。ただの守護霊ではないということだ。守護霊ならばそんな制約などあるわけがないし、さきほど南雲はハヤのことを『滞神』と呼んだ。きっとおばあ様は知っている。知っているうえで俺に黙っているのだ。そこに悪意がないことくらいはわかる。けれどハヤには隠し事をしてほしくなかった。  ハヤは俺に呼ばれたことでなにかを悟っていたようだ。やや神妙な面持ちで、正座をして待っていた。  俺は俯いて顔を上げようともしないハヤを横目に見遣り、ハヤの前に正座をする。 「ハヤ、隠していることを話してください」  単刀直入に言った。ハヤはきっとはぐらかす。そんな気がしたからだ。 「俺はハヤのことを知りませんでした。ハヤやおばあ様から聞いて、自分が尼木保全の子孫であることを知った。でも、さっきの少年――南雲は、自分が南条晴賢だと言いましたよね。ハヤのことも見えていたし、知っていた。どうしてです? どうして俺にはその記憶がないのに、彼にはあるんです? 翔たちもそう。彼と、俺たちと、なにがどう違う?」  ハヤは苦い顔をしたまま俯いている。なにも話してくれないつもりなのだろう。俺もだんまりを続ける。  けれどどれだけ経っても、ハヤは口を開かなかった。いい加減焦れてきて、ハヤを呼ぶ。しかしハヤは返事さえしない。 「話してくれないのならもう結構です。俺に帯同してくれなくてもいい。明日からはこの根付けも、仏間に置いて登校します」  言いながら根付けを帯から外し、やや乱暴に畳の上に置いた。ハヤが弾かれたように顔を上げた。 『それは困りまする!』 「なら話して下さい」 『むう、それも、出来かねまする』  俺はハヤを睨み、少し顎を上げた。 「なら、仏間で過ごしなさい」  語気を強め、本気であることを強調するように言う。ハヤは難しい顔をした後、深く息を吐いた。 『ならぬ仕来りなのです』 「元主の主命でも、ですか?」  ハヤは顔を上げない。俯いたままうーうー唸っている。ハヤには話すつもりがないのだと判断して、俺は根付けを手にし、立ち上がった。 「もう結構。明日からは靑鈍を帯刀し、自分の身は自分で守ります」  障子を開け、根付けを仏間に運ぼうと縁側に出た。  それでもハヤが後を追ってくる気配はない。やはり話すつもりはないようだ。歩幅を広げ、仏間の前に立つ。襖を開き、中に入る。薄暗い仏間の、ハヤの仮位牌が置いてある前に根付けを置き、仏間を後にした。  仏間の襖を閉め、ふと我に返る。子どもの癇癪のようだ。いつもハヤに守られてばかりなのはいやだ。もっと旭や翔たちと過ごすためにも、自分の身くらいは自分で守りたい。そう言えばいいものを、勝手に自分だけが置いて行かれたような気分になって、ハヤに八つ当たりをしただけだ。自分にもまだそんな子どもっぽい感情があったのかと思う。  徐々に冷静さを取り戻した俺は、自分の部屋に戻った。ハヤはまだ俯いたままだ。俯いたまま、そこにいる。葛藤しているのか、握ったこぶしが震えているのが見えた。 「ハヤ」  襖を締めて、声をかける。ハヤが弾かれたように顔を上げた。そして俺の顔を見るなり、いつものしまった表情ではなく、へにゃりと眉を下げ、まるで捨てられた子犬のような情けない顔をした。 『倫殿』  ハヤの目が潤んでいる。さすがにやり過ぎたと感じ、慌ててハヤの前に腰を下ろす。 「怒ってない。ただ、自分だけ蚊帳の外のようで、悔しくて」  いや、それすら言い訳だ。自分が短気を起こしたことを体のいい言葉で打ち消そうとしているだけだ。 「俺が短気を起こしたのが間違いだった。きちんと言葉で言えばいいものを、ハヤならわかってくれるだろうと甘えがあったんだ。ごめん」  ハヤが俯いた。鼻をすする音がする。俯いたまま目を擦ったあと、ハヤが今度は真剣な表情で顔をあげた。 『私こそ、貴方様の立場を視野に入れておりませなんだ。いつだって鵺に狙われるのは私ではなく倫殿。ご自身がどのような状況に置かれているのか、貴方様にはお知りになる権利がありましょう』  しかしながらと次ぎながら、ハヤが畳に目線を落とす。 『仕来りは仕来り。時が来るまで話せぬこともあります。それはご了承いただきとう存じます』  うなずいた。それはわかっているつもりだ。 『格殿には前世の記憶がありますが、貴方様にはそれがない。貴方様だけではない、壬生も、黒木も、言経殿もだ。  壬生たちに記憶がないのは、貴方様からの主命を守り、天命を全うしたからでしょう。戦では死ななかった。民を守った。関白に下りはしたものの、それぞれが尼木の元にいた己と、関白に下った己とを分け隔て、志を守った。故に、魂を継承したとはいえ、前世の記憶を持っては生まれなかったのだと思います。  ですが、我々は違う。私も、そして格殿も、貴方様との約束を果たし、守る為だけにここにいます』 「約束?」 『それに関しては、私の口からは言えませぬ。時が訪れ、貴方様が過去世の記憶を取り戻すまで、触れてはならぬのです』  そう言った後、ハヤはもう一度ぐっとこぶしを握り締めた。 『私は420年近く前に貴方様を失ったあと、七度も貴方様を見送ってきた。それぞれお立場も、性別も違いましたが、どの貴方様も天木保全であった頃の記憶を有してはおりませんでした。  直近では先の大戦中にお会いしました。貴方様は飛行機乗りでした。小さな体であのように大きな鉄の塊に乗り込み、17にも満たない貴方様を送ったのです。私の力ではどうにもなりませんでした。触れられもしない。声を掛けることもできない。ですが、亡くなる間際だけ、私のことを見つめて下さいました。そこにいたのかと、声を掛けて下さいました。  倫殿、どうか私を帯同させて下さいませ。私はもうあのような思いを味わいたくはないのです』  畳に額が付くほど頭を下げ、ハヤが言う。ハヤの声は震えていた。顔は見えないが、涙声だった。俺は自分がとんでもないことを言ったのだと気付き、慌ててハヤに声をかけた。 「ハヤ、もういい。もう十分だ」  ハヤの背を擦ろうとするが、するりと抜けてしまう。  もどかしい。ハヤが泣いている。ハヤは自分にはなにもできないと言ったが、俺もハヤが泣いているというのに、慰めることすらできない。  そう思ったら涙がこぼれた。次から次へと涙が溢れてくる。堪えようと思っても、できない。悔しくて、歯痒くて、やりきれない思いが涙に変わっていく。ついには嗚咽を零した。俺の声にハヤが弾かれたように顔を上げた。ハヤの目と頬は涙でぐちゃぐちゃだ。 『倫、殿?』  ハヤがぽかんとしている。俺はぐすんと鼻を啜って、浴衣の袖で涙を拭いた。 「なにもできないのは、ハヤだけじゃない」  俺は次々溢れる涙を拭い、声を震わせ、詰まらせながら言う。 「俺だって、ハヤに謝りたくても、触れることさえできない。ハヤの気持ちを解ろうともしなかった」 『り、倫殿、そのように泣かないでくだされ』 「だって」  堰を切ったように流れ出した涙は止まらなかった。ハヤはそんな俺に近付いて、そっと背を叩く仕草をした。 『貴方は変わりませぬな。姿かたちは違えど、心根はあの時のまま』  ぐすんと鼻を啜ってハヤが言う。俺は涙を拭いながらハヤに抱き着いた。感触はない。でも、腕の中にはハヤがいる。 「もう仏間で待てなんて言わない」  ハヤが頷いた。 『あそこにはご先祖様とておられるのです。そのようにされては、朝から晩までご先祖様からお小言を食らってしまい、敵いませぬ』  情けないハヤの声に、俺は思わず笑ってしまった。ハヤが俺の背を撫でている。手の動きだけでわかる。ハヤに身を預けたかったが、そんなことをしたら間違いなく畳に倒れ込むだろう。 『あの頃も、このようにして、我々の代わりに泣いて下さったことがありましたな』  ハヤが感慨深そうに言った。 『私が部下を亡くした時でした。泣くに泣けない私の前で、貴方は真っ先に泣いて下さいました。よく戻ってきてくれたと声を掛けられ、彼はその言葉に救われたことでしょう』  言いながら、ハヤはとても優しい目で俺を見て、また背中を撫でるように手を動かした。 『倫殿、今宵はまた、ここで眠ってもよろしいでしょうか?』  俺はハヤを見上げ、頷いた。 「今宵だけでなくても結構です」  言って、俺もハヤの背中を撫でるように手を動かす。 「辛いことを思いださせてごめんね、ハヤ」  お互いに感覚などないことは分かっている。けれどどうしてもしておきたかった。小さい頃、母が泣きじゃくる俺によくしてくれていたように、ハヤの額にキスをした。

ともだちにシェアしよう!