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第5話

どうしよう。マスターがいないこの先どうしたら良いんだろう?    翌朝、とろとろの甘いとうもろこしのスープをすすった後に、ベッドの背もたれによりかかるように座らされた。肘の下には程よい大きさのクッションを置かれる。  ディランは俺の前に小さな卓上机を置き、紙を乗せた。  ディランの手には小さなインク壺とペン。 「アシェル、まだ話せないだろう?筆談ならできるんじゃないかと思って用意したんだ。辛かっただろうがあそこで何があったのかを教えて欲しい」  ディランの言うさっきゅう(・・・・・)という言葉が早急…すぐにっていうことはわかる。  昨夜の大声のレヒトと、ディランは警備の仕事をしていてアシェルもその一員で、アシェルが功を焦って捕まった…というのがレヒトの言い分だった。  たくさん人が亡くなったから…それに地下で行われていた実験のことも知りたいんだろう。おれが知っていることや説明できることなんて全然ないけれど…。  アシェルに関して言えば…。  確かにアシェルは捕まってた。長い間監禁されてた。ひどい目にあっていた。  どうして誰も助けにきて来てくれないんだと泣いて悲嘆していた。結局会えないまま、こんなことになってしまった。  アシェルの存在がどうなったかおれにはわからない。…会えたらどんなに嬉しかっただろうと思うとつらい…。そんなアシェルの嘆きをディランは知りたいだろうか?  他に何が言えるだろう。  長くあの場所にいたけれど、あそこがスタラ家の地下だと言うことを、おれは知らなかった。  おれ、あそこで生まれたのかな?  思い出せない。  おれがガラス瓶に入る前のことも思い出せない。  マスターがスタラ家とどういう関係だったのかも、スタラ家の人なのかどうかもわからない。  …マスターの名前がわからない。  おれは何を書けば良いんだろう?  伝えられることなんて何にもない気がした。  …というか、おれは文字を書けるんだろうか?  長いこと瓶の中に入ってたせいなのか、瓶に入る前の知識なのか読めるんだけど、書いたことはない。へにょへにょした手足だったからなぁ。  ディランがおれの手にペンを持たせたけれど、ペンはゆっくり指の間から滑り落ちた。  ペン先から飛んだインクが紙を黒く汚す。  ペンは卓上机の上に転がった。 「…書けないか……」  失望混じりの声に身がすくむ思いだよ…。おれは転がったペンを取ろうとした。  スプーンを持てたから問題なく持てるはずなのに手は自分の手じゃないみたいにおそろしく震えた。  この怯えと嫌悪は、おれのものなのかアシェルが感じていたものなのか。  どちらにしろこの身体が何をされていたなんてアシェルだって書きたくはないよな。 「わかった。少し待っていてくれ」  ディランはペンとインク壺をベッド脇のテーブルに置いて出て行ってしまった。  待っていてくれとは言われたものの、不安になってずっと部屋の入口を見つめていた。  マスターに捨てられて、ディランにも見捨てられちゃったらどうしよう…。  ここにずっと住めるんだろうか?  思ったより早く戻ってきたディランは手に一枚の板を持っていた。  卓上机の上にそれを置かれると、何故か鎖で縛られたようにもう逃げられないような気になった。  置かれたのは文字盤だった。上部には、『はい・いいえ』『わたし・あなた』その下には本に書かれている音素を転写した基本文字が規則的に並んでいた。 「これで話ができそうだな?」    おれは『はい』を指差す。  比べてはいけないけれど、おれの顔をのぞきこむディランの顔はマスターと比べても、あの大声のレヒトと比べても…怖い顔だった。  眉間に深く刻まれたしわ、不機嫌そうに見える濃い眉、その下の鋭い眼光が威圧感を持って押し迫ってくる。 「体調はどうだ?」  最初の質問はあたりさわりなくてほっとした。 『はい、良い』  大丈夫、元気ですと差したいところだけれど簡潔に指を動かす。 「辛いだろうが、スタラ家で覚えている事を教えてくれ。なにがあったのか。あの男に拉致され…拷問を受けた事に間違いはないんだろうが…」  ディランは言い辛そうに一度口をつぐんだ。 『あの男?』 「ハインリヒだ、赤い血潮の従者を名乗るハインリヒ。ハインツ…奴の愛称だな。よくある名だがそれを名乗る男がスタラ家の子息の家庭教師として招かれていたという事は裏が取れた。歳は三十代、金髪碧眼、長身痩せ型、貴族的な容貌。あの焼け跡に該当する死体はなかったそうだ」  金髪碧眼?    マスターの外見と違う。  マスターは黒髪だもの。 「お前を囚えていたのはどんな奴だった?ハインリヒだったか?」 『いいえ』  おれは、マスターの不利になるようなことは言いたくない。  幸い…というかおれはマスターの名前がわからない。  外見も異なるし、ディランの言うハインリヒとマスターが同一人物かどうか証明する手立てはおれにはない。   「あの場所にいたのは何人だ?相手はどんな奴だった?」 『ひとり』    人間はマスターとアシェルだけだった。  でもあの場所にはオウムの他に魚やトカゲ、虫もいた。  犬や猫はたぶん別の部屋に。  豚や山羊なんかは外から連れてきたんだろうけれど、大きいのはすぐに捌かれちゃったからよくわからない。  おれはあの場所では長く生きてたほうなんだ。手足が無くなっても生きていける生命力のおかげではあるけれど。    マスターがおれをあんなふうに捨てて行ったのは価値がないからだろう?そんな無価値のおれの話なんてディランは必要としないだろう。  マスターに捨てられたのは悲しいけれど、捜査が進まない間に安全などこか遠くの場所へ逃げてくれればいい…。  おれは文字盤を見つめて考えた。  もし、今体調が悪い、苦しいと言って指を離せばディランは休ませてくれるだろう。  顔は怖いけれど、彼は優しい。  その優しさにつけこんで、黙っていたい。マスターのこともおれがアシェルではないことを永遠に沈黙していたい。  この顔も身体も傷がつかないように大事にするから。  そう思いながら、胸が苦しい。  この先ずっとこの苦しさを抱えて行くんだろうか?  おれが本当の事を打ち明けても、彼は優しくしてくれるだろうか?それともおれはこの身体ごと処分されてしまうんだろうか?  でも聖水の洗礼をくぐり抜けたし、レヒトが持ってきた十字架も、あの意味不明なニンニクの首飾りも平気だった。  もしおれがアシェルでないと打ち明けても、『人工生命体(ほむんくるす)』であることはばれないかもしれない。    人間としていきていけるかもしれない。    おれは文字盤に指を滑らせた。 『わたし・は』 「ん?なんだ」  おれをのぞきこむディランの目もとは荒れて黒ずんでいた。毎日ずっと疲れ果てるまでアシェルを探していたことがわかる顔だった。  外見がアシェルでも、中身が違うことを知ったら彼は悲しむだろう。 『あしぇる』  そこまで指すと彼の鼻からふっと息が抜けて笑うような気配があった。 『では・ない』 「ん?何をふざけているんだ、お前。真面目にやってくれ」  彼の手がぽんぽんと優しくおれの頭をたたく。   『わたし・は・あしぇる・ではない』  もう一度ゆっくりと指さして彼を見た。  おれが指した文字を読み取ったその顔に浮かんだ感情は、困惑、苛立ち、一瞬の怒り。 「…アシェル」  その声には間違いなく僅かな怒りの感情が滲んでいた。  怒らせずに。  悲しませずに伝えるなんて無理だ。 『あなた・は・しんじない』 『わたし・は・あしぇる・ではない』  ディランは険しい顔で、おれから板を取り上げた。 「お前の気持ちも考えず急がせ過ぎたようだ。ゆっくり休んでくれ」  彼は卓上机もクッションも取り払い、おれの肩を押した。 「%#@£?」  おれはディランを呼んだけれど、彼は自分が切られたような顔をしておれを寝かしつけて髪を撫でた。それからゆっくり大きな手でおれの視界を塞いでしまった。 「眠るんだアシェル。ゆっくり休めばきっと…」  きっと、のあとをディランは言ってくれなかった。  きっと良くなるとか、大丈夫だとか言いたかったのだろうけれど。  もし、この身体でアシェルが目覚めたらおれはどうなっちゃうんだろう。  紙がインクを吸い込んだように、おれは消えちゃうのかな。  マスターはおれが入ったガラスの瓶に黒い布をかけておれを黙らせたけれど、ディランは大きな手のひらでおれの世界を黒く塗りつぶした。ただその手はガラスと違って温かかった。

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