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第6話

 どうしよう。おれ、耳がすごく良くなっているみたいだ。    隣室で話をしている二人の会話が聞こえてしまった。おれは横たわったままそれを聞いていた。一人はディランで、もう一人の男の声は誰だろう。  おれに聖水を振りかけたあの白い衣の神官かもしれなかった。 「身体に目立つ傷跡がなくても、人を痛めつける残虐な手法の拷問や尋問というものはあります。眠れない状況に置く事で被害者が助けられた後も幻覚症状に苦しめられる事があります。今彼に現れている症状は失声と自分の存在を否定するか自分と認識していないような…自我意識の障害でしょうか…。激しい暴力や性的な虐待を受けたせいで解離性の障害を生じてしまうことも稀にあります。今の状態では話せないのか、話したくないのかも判別できませんし、焦らず今は身体の回復を第一として、相手の発言を否定しないようにしましょう」 「暴力のせいで後遺症が残るっていうのは幾つか見ているからわかるんだが、先生の言うその乖離性の障害ってのは何なんだ?」  静かな抑揚のない声で話す男の後に、戸惑ったようなディランの質問が聞こえた。 「乖離症状は、簡単に言えば意識が飛ぶ状態です。…彼の場合は受けた拷問から自分を守るために『なかった』ことにしたか、防御壁となるような新たな人格を作り出したか…俗に言う多重人格ですが。そう云う症例は書物でしか読んだ事がありません。言い方は悪くなってしまいますが廃人で無かったことに感謝して、世話をしてあげてください。もし暴れるようなら鎮静の薬を処方させます」  二人の会話は難しかった。  アシェルは地下であったことを全部無かったことにするために消えちゃった? 『アシェル、もう大丈夫だよ。誰もいじめないよ。ディランがいるよ。お薬もあるよ』  おれは前にもそうしたように目をつぶって自分の中に話しかけてみた。  あぁ、人の心ってどこに隠れるんだろう。心?それとも魂?    地下で鎖で繋がれていたアシェルの最後の姿を思い出す。首から下は真っ赤だった。髪も赤く染まり、壊れた人形のようだった。微笑むマスターの血まみれの手。  赤い血と共にアシェルは流れ出てしまったのかな…。  人間の体がわからない。  人間の身体も言葉も難しいよ。  隣の部屋から足音も立てず戻ってきたディランが、ベッドの脇に座る。  おれはディランに背を向けるように寝ていた。    ディランの手が頭を撫でる。  おれは振り返りたかったけれど転がったままでいた。ディランが辛そうな顔をしていたら嫌だからそのまま寝たふりを続けた。  アシェルだってきっとディランのそんな顔を見たくはないだろう。  ううう、いや、どんな顔でも見たいか…?  ちょっとだけ見ようか、ちょっと見て目をつぶって寝たふりをしようか…。  おれがもぞもぞと寝返りをうつのと、上着を脱いだディランが横に入ってくるのは同じだった。 「起こしてしまったか…?すまない…おやすみ」  ディランに抱え寄せられた。  あれ?これじゃ顔が見えない…  胸に顔をよせて、とくんとくんとディランの心臓の音が規則的に響くのを聞く。  なんでディランの心音は聞こえるのに、おれの音は聞こえないんだろう?なんでディランの身体は熱いのにおれの手足は冷たいんだろう?  人間の身体ってそんなに個体の特徴が違うの?  鳥の羽毛や魚の鱗の色が違ったり、ヒレの長さが違うようになにもかもみんな違うのかな。    もしかしておれは死んでしまったアシェルの身体を動かしているんじゃないよね?  死んだ生き物の体は冷たい。  冷たいのに腐臭を放って腐っていく。  おれは臭くないよね?  自分の体臭もわからないや。  ほんのりディランの汗のにおいがする。  髪をなでつけてる油か何かのにおいもする。 「ん?…もしかして汗臭いのか」  ディランが離れようとしたので、おれは顔を押し付けた。  ディランのにおいは嫌じゃない。  犬や猫がマスターにしていたように頭をこすりつけた。    おれは心底困り果てていた。  あんなに憧れていた人間の身体なのに。  扱いに困るなんて。  人間の身体になれば何か素晴らしいことがあるに違いないとか、何もかもうまくいくとか、夢や希望に満ちあふれた世界を想像してた。  狭いガラス瓶の中でどうしようもないぐにゃぐにゃした長い手足を抱えながら見ていた夢はなんてキラキラしていただろう…。  人間の身体なら、マスターの手伝いをしたり一緒に歌を歌ったり、外に出かけたりそんなことができるんじゃないかと思っていた。  外で、花や果物を摘んだりそんなことも。  でもマスターに捨てられて…ミキサーで切り刻まれて、まるでその時に夢もみんなすり潰されちゃったみたいだ。  マスターがいなければ夢なんて何の意味もない。  すぅすぅと寝息が聞こえ始める。身体の上にあるディランの腕が重い。彼は深い眠りに落ちたみたいだった。眠っていてもアシェルの身体を離したくないみたいに手足がからんでいる。    ディランの熱がゆっくりおれの中にはいってくるみたいだ。  足が温かくなると、眠くなるのかな。  暗かったはずなのに次に目が覚めると、明るくて、ディランは目尻をさげておれの顔を見つめていた。  目があった瞬間に、彼の顔が曇る。    昨日赤い目を、悪魔の目と言った。  アシェルの目は綺麗な緑色だったから。  赤い目が嫌なんだよね。  両目の色が違うのも嫌なんだよね?  おれはぎゅっと目をつぶって願った。  緑の瞳。  宝石みたいな緑色。  マスターの指にあった炎の前では緑に闇の中では血のように赤い指輪みたいな…。  頭の…頭蓋骨の内側にざらざらしヤスリをかけてやわらかい部分をこすりつけたみたいに痛くなった。    目も頭も痛い。  息をするのもつらい。  この身体になった意味があるのかと呪いたくなるくらいに痛い。 「アシェル、苦しいのか?今薬を…」  ディランはそっと触れただけなのに、釘を打ち込まれたみたいに痛んだ。  だいじょうぶ、大丈夫、痛いのなんてなれてるんだ。  痛いけど、こんなの平気だ…。 「アシェル…目が……治ったな、痛むか?薬を飲むか?」   ディランが実験に成功したマスターみたいな笑顔でおれに微笑みかける。  彼が素早く取り出した白い粉薬は、舌が痺れるように苦くて、ひと舐めでつばがどっと出た。  嫌だ、こんなの舐めたくない…。  そう思ったのに伝える|術《すべ》を持たず、谷折りの紙に乗せた粉薬が口の中に滑るように入ってきた。  ぬるい蜂蜜水を飲まされる。  苦くて、甘い。  舌はまだしびれているような気がした。  さっきよりずっと優しい顔でディランはおれを見ていた。  伸びてきた手を、思わず避けてしまった。  だってさっきすごく痛かったんだもん。  平気だって思おうとしたけれど、またあんな針を打ち込むみたいな痛みが襲ってきたらきっと泣いてしまう。  おれはまたもぞもぞとベットに横になった。 「%#@£…」  もしまた目が赤くなったら、彼はがっかりするんだろうな…。  おれは痛いのを我慢したら、カエルの保護色ではないけれど目の色ぐらいは変えられるのか。変色したのが、目で良かった。  皮ふが緑色になったらきっと、化け物になったと思われて切られるか火あぶりにでもなるに違いなかった。  もしかしたら、今と同じくらいの痛みに耐えればのども元通りに治せるのかもしれない。  ただ続けてこの痛みに耐えられる勇気はなかった。さっきのは、やせがまんっていうやつだよね…。  それに話せるようになってしまったら、おれはアシェルに起こった事を、聞かれれば全部話してしまうだろう。  アシェルのために全部話してあげなくちゃという思いと、この身体のままでいたいと思うおれの気持ちがごちゃまぜになる。  信じて全部話すのは怖かった。  ディランを信じるには、あまりにも彼のことを知らなさすぎた。  あの時、アシェルを助けてあげたいと思った気持ちも嘘じゃないのに…。  これからどうして良いかがわからなくておれは困りきっていた。  そして困りきったおれは、身体の要求に従って、たぶんそれは薬のせいだろうけれど…。    ディランがそこにいて、何かを優しく話しかけてくれているのに、うとうとと寝落ちしてしまった。

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