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第7話
どうしよう。おれの目の色は緑色になってしまった。
アシェルの新緑の若葉みたいな色だ。
これってどういうことなんだろう。
ディランは小さな鏡を置いていってくれた。おれはそれを眺めている。小さい鏡なのに持つと重い。支える腕がぶるぶると震え始める。落とすと嫌なので、そっと置いた。
左は赤く、右は黒っぽかったのにどちらも同じ緑に変化してしまった。マスターと同じ赤い目は失われてしまった。その事が悲しいのに、辛くないのはディランが優しいからだ。緑の目のおれにディランは蕩けるように笑いかける。
なんだかもう痛いのも怖いのも悪いことは全部終わってしまったと思わせるような表情で、おれは彼の手のひらで良いように転がされているような気がする。そして、それが嫌ではない。
鏡に映るのはしわくちゃの醜いおれじゃなかった。
痩せて、少し頬がこけた感じがあるけれど綺麗な顔だった。
アシェルの綺麗な顔。
つんとした鼻先と唇がうすい桃色だ。白桃の切り身みたいだよ。舐めても甘くなくて残念だ…。
もっときりっとした顔だったように思えるんだけど、変だなぁ。眉が白っぽくなったせいかなぁ、痩せたせいなのかなぁ。ぼやけた印象だ。
金髪が白髪になっちゃったせいかなぁ。
『人工生命体 』のおれには髪はなかったから長いと変な感じがする。顔にかかるとかゆい。
アシェルの金髪の時は綺麗だったけれど、白髪は邪魔だし切っちゃおうかな。切ってくれるかな。
おれは顔にかかった髪を払った。
これだけの動作なのに腕はすごく重い。
人間の身体って細いように見えて重量があるんだな。この身体を維持するのって大変なんじゃないかな。いっぱい寝るのも体力温存のためか?
おれもガラス瓶の中にいて黒い布を上からかけられると、静かにじっとしてその間は餌とかもあんまりいらなかったし。
アシェルが食べた餌は…。あ、人間は餌って言わないか。食事はとうもろこしのスープだったな。あの量で身体が維持できるはずないな。
次はもっと食べよう。
あの人が、…レヒトがくれたニンニクも取っておけば良かったなぁ。
レヒトがくれたニンニクの首飾りはディランが部屋の隅に投げて、そのあと臭いからって外に捨てに持って行ってしまったんだよな。
保存食にってとっておけば良かった。
部屋に食べ物はない。
食べ物のことと、桃のことを考えたせいかな。
桃、白桃が食べたい。
おれが白桃への思慕に溺れる前に、誰かが部屋の扉をたたいた。
「%#@£?」
ディランと神官以外にこの部屋に誰か来る?
扉を開けて入って来た人が一瞬誰だかわからなかった。
前は黒っぽい物々しい鎧に髪を振り乱して、叩きつけるように乱暴な感じだったから。
入ってきたのはあのレヒトだった。
今日は怒り狂った闘牛風ではなかった。口角はぐっと下に引き下がっていたけど怒った風じゃなくてなんだかおしっこを我慢してるみたいな顔だ。
砂茶色の髪は後ろで結ってあるし、目と同じ青い艶々した上着を着ている。
うわぁ…。外の世界にはなんて綺麗な服があるんだろうね。青い生地の上から一段濃い青色で細かい刺繍が一面にされている。服の上に絵を描いたみたいだ。すごいなぁ。おれは服に見惚れた。襟と袖はぴかぴかな銀色の刺繍だ。
マスターも襟や袖にレースのついた服を着る時があったけれど、実験の邪魔だと言って上着はすぐに脱いでしまうし、腕まくりをしていたからね。
おれはガラス瓶の中では裸だったし。
濡れてぬるぬるが好きだったけど、マスターが綺麗な服を着ているのを見るのは好きだった。でもマスターは黒っぽい服が多かったんだよ。
いや、それに比べてもレヒトの青い服はなんて綺麗なんだろう。
すてきな服を着たレヒトの後ろにはもう一人静かに佇んでいて、そちらは落ち着いた目立つところのない茶色の服だったんだけれど、おれは別のものに目を奪われた。
その人が持つカゴの中にはたくさんの果物が!
たくさんの果物の中にある白っぽいそれは桃!白桃!?くれるの!?くれないの!?もしかして良い子にしてたら後であげるとかそういうの!?ねぇ!?
おれは桃を見つめ、カゴを持っている男の人を見つめ、その人が視線を合わせてくれないのでレヒトを見つめた。
「mεmε!!」
桃、桃おくれよ!
見せつけて、帰るんじゃないよね?
「mεmεoO!!」
桃ぉぉ!!
「うん?なんだ?腹が減っているのか?神殿はまぁ粗食だろうからな。このお優しいレヒト様がわざわざ、お前なんかのために見舞いに来てやったのだ。ありがたく思え」
レヒト…いやレヒト様は尊大に言い放った。
うん、桃をくれるんならどんな言い方でもいいや。
後ろのお付きのような人が静々と果物の入ったカゴを机の上に置いた。
待って!そこだと手が届かない。
おれは切ない気持ちで桃を見つめた。もぞもぞと動き、肘を使って身体を起こす。なんて重たい身体なんだろう。
レヒトはどうして良いかわからないみたいにおれを見たけれど、おつきの人がささとおれの後ろにクッションと枕をあてがった。慣れた動きだった。
残念なことに身体を起こしても果物は遠かった。
甘い香りがほんのりと漂ってくるだけに余計に切ない。
「mεmεo…」
レヒトはカゴから何かを摘んだ。
親指の先ぐらいの明るい緑色のつるっとした粒だ。ぶどうだ。赤くないぶどうもあるんだな。
レヒト!レヒト様!!それじゃないよ。
おれの願いも虚しく、しかも残酷にレヒトはそれをおれにくれず、おれの目の前で食べてしまった。
ぇええ!?見せつけに来たの…?ひどいよ…。
「まぁまぁだな」
レヒトは次の粒をおれの口に押しこんだ。
皮がぱちゅんと弾けた。すごい。じゅわぁっと甘い。
まぁまぁどころではなくすごく甘いのに、さらっとしてた。
甘い!美味しい!でもこれじゃない。
おれが執念深く桃を見つめたせいか、レヒトはおれの視線をたどり、桃に目を止めた。
それなのにおつきの人が白い布巾の中に桃を隠してしまった。
まさか、おつきの人が意地悪をするなんて…。
見せつけておいて隠しちゃうなんて…。
って思ったら、桃の産毛を布巾で拭き取って、流れるように優雅に桃の割れ目にナイフを入れ、くるっと回したように見えた。
切れ目を入れて桃を左右にひねったの?
左右に二つに分かれた桃の片側には丸い種が残って、白と桃色の美味しそうな果肉が食べてと訴えていた。
おつきの人が種を取り、またするっとナイフで切り目を入れて台にしていた布巾ごとレヒトに差し出した。
もう部屋いっぱいに桃の香りがする。
桃天国だ。
レヒトの指がみずみずしい果肉をつまむ。
そのままゆっくりと弧を描くように近づいてきて…おれの鼻先をかすめるようにして、桃の半分はレヒトの口の中に消えていた。
おれには残り香だけ。甘い桃の香りだけ…。
「まぁ、これもまぁまぁだな」
やると思ったけど。マスターだって時々同じことをしたから絶対やると思ったけど!!おれはめげずにあーんと口を開けた。
マスターは二回も三回も今みたいなことをして、おれがガラス瓶の中で伸び上がったり、ガラスに顔を押し当ててぷぎゃーするのを笑ったけれど、いつだって最後にはちゃんと桃をくれたから、レヒトだって、多分一回ぐらいは桃をくれるはずだ。
ぶどうをくれたから多分、くれるはずだ。
「…mε…」
レヒトはなんだか困った顔をして、おれの口の中に食べかけの半分を入れた。
もしかしたら、レヒトは桃がそんなに好きじゃないのかも知れなかった。
こんなに甘くて美味しいのに!
奥歯と頬の間からじゅわぁぁぁっと何かしみでるように。
甘さと喜びがしみわたる。
ごぞーろっぷにしみわたるぅぅってやつだな、これが。
おれが口を開けると、レヒトはまた半分を齧って次を入れてくれた。
半分こだな。
おつきの人にはあげなくていいのかな?
おれが視線をずらすより先に次の桃の切れ端が甘い香りとともに目の前にくる。レヒトはなんて気前が良いんだろう。
前はあんなに怒鳴って怖かったのに今日は別人みたいだ。
おれがちょっとよそ見をしたせいで、桃が口の端にあたって、滴が唇の端を伝うのがわかった。
レヒトの顔がゆっくりと近づいてきて、桃より赤い唇とか舌がすごく近くに…。
レヒトは雫を舐めて、足りなかったのかおれが食べた桃を取り返そうとするみたいにおれの口の中を探った。
桃、食べたかったのかよ!?
口の中に残っていたかもしれない桃の果汁も何もかも全部持っていってしまうように舐め回し、レヒトはおれ口の中で暴れた。うわぁ、それは桃の果肉じゃなくておれの舌だよぉぉ。
どうなっちゃったんだ、レヒトの舌がおれの口の中にあったはずなのに、今はおれの舌がレヒトの口の中にあるみたいだった。舌が食べられちゃう…。
レヒトの唇が離れた時、おれの身体が倒れないように支えてくれたけれど。なんてこったい。食べた桃、味も香りも忘れちゃうくらいにレヒトに持っていかれた気がする。
「…アシェルじゃない」
レヒトは言った。
うん、おれはアシェルじゃない。
おれがこっくんと頷くと、レヒトは言葉を続けた。
「…アシェルが俺とキスするはずがない」
あ、あれ?これってキスだったのか。惜しくなって桃を取り返そうとしたわけじゃなかったのか。
「…アシェルじゃなかったら、誰なんだ…?」
レヒトの桃の香りのする手が、俺の顔を挟んだ。すごく間近に青いサファイアみたいな目がある。
おれはマスターの赤い瞳が一番好きだけれど、青い空とか海に憧れていたから青色も好きだった。その輝くような青色が近くにあるとくらくらしそうだ。
うわぁぁぁ、また顔が近づいて、唇がくっついて…。だめなんじゃない?ねぇこれってだめなんじゃない?アシェルはディランが好きだから、これはいけないんじゃない?でもおれはアシェルじゃないけど、身体はアシェルだし、おれはアシェルじゃないよと、なんとか言おうと、伝えようと唇を動かそうとするとまたふさがれた。
レヒトはおれが話そうとするのを邪魔するみたいに口をふさいだ。
今こそあの板が…文字盤があれば。
そう思いはしたものの、おれの手と指はレヒトの広い背中をわけもわからずにさまよった。
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