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第8話
どうしよう。おれはいつだって外の世界を夢見てきたけれどこんなに毎日どうしようと悩むことになるだなんて思ってもみなかった。
食べて寝てを繰り返して痩せた身体は癒えていく。ディランと神官みたいな人達は、かいがいしく世話をしてくれた。
いたれり尽くせりというやつだな。
瓶の中にいた時より、比較にならないぐらい大事にしてもらえてた。
「身体がもう少し良くなったら鍛錬しないとな」
ディランの言葉におれは首をかしげた。
鍛錬?
何か金属を叩いたりするんだろうか?
…金属を鍛えるのは鍛造 だった。ディランが言う鍛錬は身体を鍛える事、つまりは剣の修練の事だった。
でもそれは最初から全くうまくいかなかった。
ディランがそら、と投げてよこした木刀をおれは掴むことも避けることも出来なかった。
木刀はおれの腕に当たって落ち乾いた音をたてた。
ディランは別に力いっぱい投げつけたわけじゃない。
本当に軽く投げよこしただけなのに。
木刀だけじゃない、ボールもだめ、飛んでくる蝶や蜂もだめ。
すごく極端なことにディランが近づき手を伸ばしておれの髪をかきあげる時でさえ、おれは立ち竦んだ。
ベッドに横になっている時は分からなかったけれど、動いて近づいてくるものがあるとおれは棒立ちになってしまう。
「どうしたんだ、アシェル。もしかして見えないのか?物が見づらいのか?」
ディランが気遣わしげにおれの顔を覗き込む。
「…見え…る」
おれは木刀を拾い、振り上げることはできた。
でもそれを振り下ろすことはできなかった。
こんな物で叩かれたら痛いに決まってるいる。痛いのは嫌だ、おそろしい。
実際はこんな棒じゃなくて、鋼の剣。そんなの使えるわけがない。
ディランが剣を振る姿は力強くてとてもすてきだけれど、どれだけでも見ていられるけれど、おれは同じことができるとは到底思えなかった。
おれはもう一人で支えなく歩けるし、服だって着替えられるし、食事もナイフとフォークを使って食べることができる。ゆっくりなら、話すこともできる。本だって読める。
でも、それだけだ。
アシェルが普通にしていたことができない。
字を読めても…そう、ディランが持ってきた『報告書』を読むことができても内容を理解できなかった。ディランが言う地名も人名も、それが物の名前なのか人の名前なのかもわからず戸惑い、男か女かに困惑する。
けいびなはんざいをおこしたものにたいしてこうそく、こうりゅう、またはかりょうによってたいしょし……なんて読んでいるだけで何が言いたいのか、おれはわからなくなってしまう。
誰が何時どこで何を何故どのようにしてどうなったのか、そういう考え方や書き方のうちどれかが抜け落ちてしまう。
自分が何を読んで、どの言葉が抜け落ちたのかわからないまま、焦っているうちに次の行へ目がいってしまう。お話するのも同じことだった。
誰が何を言ったのかわからなくなってしまう。
アシェルが所属してた隊の人がお見舞いに来たんだけど、こんにちはとあいさつしてありがとうと言うのが精一杯だった。
誰だかわからない人がおれの知らないアシェルの話をする。
元気そうで良かったと気やすげに肩を叩く。
「○○が○○で○○だったせいで大変だったんだぜ」
「おまえが○○に言ったせいだろう?俺だって○○と○○でやればさぁ、そのぐらい楽勝だし」
「何馬鹿なこと言ってるんだよ。アシェルがいなきゃ○○は○○で…」
おれは会話についていけずに、話す相手の顔を伺い見るだけだった。
一対一でゆっくり話すことはできるけれど、それ以外は無理だった。
おれは震える声でディランを呼んで、近寄ってくれたディランの肩口に顔を埋めた。
「おまえらうるさ過ぎだ、今日は帰れ」
ディランが隊の人を部屋から追い出す。
おれは今日までディランがどんなに気をつかっておれに合わせてくれていたかを理解した。
レヒトがおれに警邏 に戻るのは無理だと言ったわけを理解した。
どうしよう、おれはまだアシェルの事をディランに話していない。
レヒトは知っているのに、ディランは知らない。
レヒトの場合は…レヒトが「お前はアシェルじゃない」と先に言ったからおれはうなづくだけで良かった。
レヒトはおれがアシェルでなくても良いんだ。
「あいつより今のお前の方が何倍も良い」
リヒトはそう言って何度もおれにキスをした。
…リヒトはアシェルの顔が好きで中身はどうでも良かったのかな……?
この顔が有れば、中身はおれでも何でも良いのかな。
わからない。
おれはリヒトからディランに伝えてもらえないかと言ってみた。だけどまだその時ではないとレヒトはおれのお願いを聞いてはくれなかった。
レヒトの方が弁が立ちそうなのに。
その時ではないと言うなら、いつなのか。
…人任せではなく、自分で言わなくちゃいけないのに。
おれは怖いんだ。
おれがアシェルじゃないと知ったディランがどうするかわからなくて怖いんだ。
髪を撫でる優しい手も、笑顔も、瞼にそっと押し当てられる唇も全部なくなってしまうかと思うと怖くてたまらないんだ。
だっておれ、殲滅 対象なんだもの…。
ディランもアシェルも人と街を守る警邏に所属している。
第四隊は魔物を狩る熟練集団 だった。
リヒトが先におれが魔物だと、ディランに伝えてしまったら…。
一度は弁が立ちそうなのにリヒトに説明してもらおうかと思ったけれど、話さないでくれて良かった。誰にも言わないで、ってお願いしなきゃ。
人工生命体 は討伐対象なんだろうか?
人間じゃないから、きっとそうなるはずだ。
何処かに人工生命体 は人間の役に立つ生命体だって記述がないかしらん。
おれはディランが持ち込んだ書類を懸命に読んだ。
魔物や実験体は、頚部を切断し頭部と心臓を必ず焼却処理する事。灰は消石灰と共に地中深くに埋めて河川に流れ出ないように注意すること。また処理後の汚れた地は必ず聖水で清める事。
もしかしたら、見落としたのかもしれない、おれが読み間違えてるのかもしれない。
でも見た限りでは良いことなんて一つの記述もなかった。
おれはマスターと一緒にいた頃、マスターのような人間の姿になりさえすれば幸せになれるように思っていた。
美しい姿。
自由に動く手足。
綺麗な優しい歌声。
広い世界を自由に生きられるかもしれないなんて憧れがあった。
ああ、でも今は。
おれが普通ではないことは誰にも知られてはいけないんだ。
ディランは違うかもしれない。リヒトのようにおれの存在を許してくれるかもしれない。
この人を騙そうなんて気持ちはかけらもなかったのに。結果的にずっとあざむき続けている。
優しさを失うのが怖くておれはまだ言えないでいる。
ディランだっておれのこと変だと思っているはずだ。でも今は怪我の後遺症だと思ってるみたいだ。
いつまでこのままでいられるだろう。
おれは考える事を放棄して、ディランにもう一度しがみついた。
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