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第11話
どうしよう。朝出て行ったっきりディランは戻って来なかった。
部屋で待ちきれなくなって、何度も玄関まで見に行った。もしかしたら馬屋にいるかもしれないって見に行って、すれ違ったかもしれないと思って部屋に行ったけど、部屋には誰もいなかった。
少し座って落ち着きなさいって怒られて、書写の練習をさせられる。
物音がする度に、ディランが来てくれたんじゃないかと思って立ち上がりかけて、でも部屋の入り口を横切っていくのは神官さんだった。
食事もしたはずなのに気がそぞろになって自分が何をしてたかよく覚えてない。
陽が落ちて、神官さんがもう休みなさいって、おれをベッドに追いやって蝋燭の火を消してしまう。
「今日は夕方から雨が降ってしまいましたし、お忙しくてこちらに連絡をよこす暇がなかったのかも知れません。きっと遅くとも明日の昼までにはなんらかの連絡が来ますよ。くれぐれも夜中に出歩いてはいけませんよ、いいですね」
何度かおれの世話をしてくれた神官さんは毛布をおれの肩口まで引き上げてぽんぽんと叩き、そのまま部屋を出て行ってしまった。
暗い部屋に取り残される。
窓の外からはさぁさぁと静かに雨が降る音が聞こえていた。
忙しいのかな?
何かあったのかな?
それともやっぱり、何にも出来ないおれは手がかかるし邪魔でいらないのかな。
もしディランがおれをいらないと言ったら、おれは神官さんみたいに石床を拭いたり履いたりして、朝には歌を歌って、病気の人のお世話をしたり破れた服を縫ったり、何かを書き写す仕事なんかをここでするようになるのかな。
おれにできるかな。
神官さんはみんなきびきびして手際が良いんだもん。おれも毎日練習して繰り返せばみんなと同じようにできるかな。みんなと同じようにできるようになったらディランは迎えに来てくれるかな?
おれはぐしぐしと鼻をすすりながら暗い窓の外を見つめた。
次の日も、その次の日もディランは来なかった。
俺はディランが来たらすぐにわかるように、門から続く長い石畳を履いたり周りの草むしりを手伝ったりしてた。だから見逃すはずないのに。
ディランは来てくれなかった。ディランだけじゃなくて、レヒトも。
「きっと休まれたぶん、お仕事が溜まってお忙しくてしていらっしゃるんでしょうよ。待っていれば必ず連絡が来るでしょうから。いつも通りにしていらっしゃい」
神官さんに励まされながらおれは待った。
夕方ぴかぴかにした石畳に長く黒い影が伸びるのを見て寂しくなった。
ディランもレヒトもおれを迎えに来てはくれなかった。
知らない人に話しかけられて、おれは返事に詰まる。
「見ない顔だね。君はここで働いているのかな?」
「おや、神殿にこんな綺麗な出迎えがいるとはね、驚いたな」
おれは働いてるわけじゃないし、誰かを驚かそうとしてるわけでもなかったから、そんなふうに言われると箒や雑巾をそのままに自分の部屋へと逃げ出してしまった。
翌日、鏡を見ると酷い顔だった。泣きすぎて目も鼻の下も真っ赤だった。悲しいけどずっと部屋に引きこもっているのも辛いし、掃除をしようとしたら神官さんはおれの手を引いて、寝泊まりしているのとは違う棟におれを連れて行った。
そこはもっと簡素な作りで、ちっちゃいのがいっぱいいた。
子供の群れだ。
「みんな両親がいなかったり、親に捨てられた子達です。迎えの来ない子達です」
神官さんはおれにそっと囁いた。
泣いているのは小ちゃい赤ちゃんだけで、それを囲んであやしているのも子供だった。少し大きな子は編み物や縫い物をして、小さな子は葉っぱみたいなのをむしったり揃えて束ねたりしていた。
おれは書取りで練習した言葉を思い出したよ。
『はたらかざるものくうべからず』
こんな小ちゃい子が働いているんだからおれは倍も働かなくちゃいけないだろう。
赤ちゃん以外誰も泣いていない。笑っている子さえいる。
誰も迎えに来なくても、おれも笑えるようになる日が来るのかも知れない。
そう思ってはみたもののやっぱりすごく寂しかった。
その場で服の裾をかがるやり方を習って、延々と布を縫っていった。早く綺麗に縫えるようになると袖口や、丸みのある襟なんかを縫う役になるんだって。
おれ、外の掃除でよかったのになぁって言ったら神官さんは困った顔をした。
「あなたは目立ってしまって…来客者に公娼を置くようになったのかとか、誰の稚児だとか聞かれるのはですね、違うと言っても納得してもらえなくてやはり困ってしまうのですよ。ここはまず来客がありませんから、ここにいてください」
こーしょーは知らない言葉だった。ちごじゃなくて稚魚だったら知ってた。卵から孵ったばっかりの魚だ。マスターが稚魚がって言ってたから知ってる。
いてください、ってことはとりあえず追い出されることはないんだよね。
どれだけ置いてもえらえるかはわかんないけど。
子供達に混じっておれは手を動かした。
なんだかちらちらと視線を感じる。
「あんたもメルやミエレみたいに貴族に引き取られることになるんだから、そんな一生懸命やらなくったっていいよ」
顔に砂を散らしたような子がむっつりと言った。
ここにいる子の中では一番大きいかもしれない。
「やっぱり妾になるにはああいう顔じゃないとだめなのかしら」
「あんたは無理よ」
「なによあんただって無理よ」
布を手にしたまま、女の子達が言い合いを始める。
「妾になりたいだなんて、みっともないこと言わないでちょうだい」
「妾だなんて恥ずかしい存在よ」
別の誰かがピシリと鞭を打つように言い放った。
「でも素敵な旦那様がいて毎日綺麗な服を着てお腹が空かない生活ができるんだったら、妾でもいいわ。二番目、三番目だっていいわ」
「そうよね、ずっとここにいたって貧民とかわらないもの…」
ざわざわと皆が口々に言いたいことを言い始める。
「素敵な旦那さんじゃなくて、豚みたいな金持ちだったらどうするのよ」
「嫌だわ、そんなの」
「きっと母さんみたいに、奥様にいびりころされちゃうんだわ」
「怖いわ、いやね」
静かな水面に石を投げ入れて水の波紋が広がるみたいに、みんなぺちゃくちゃ喋り出した。なんとなく気まずい。
おれ、ここにいない方が良いんじゃないかな。
そう思った時だった。
「アシェル!」
それは、待ち望んでいた声じゃなかった。ディランの声じゃなかった。
「迎えに来るのが遅くなってすまなかったな」
うるさかったその場が一瞬にしてしーんと静まり返った。
カツン、カツンと革靴の足音が響くくらいに静かになってしまった。
「おれ、まだ、これ終わってない」
おれは手にしたままの縫いかけの布を掲げた。裾を縫い上げている途中だった。
「もう、そんなことはしなくて良いんだ」
レヒトはおれの手から布切れを取り上げて机の上に置いた。
あの子が言ったとおりになって、まるで予言みたいに。おれは振り返って砂を散らしたようなあの子を見ようとした。でも誰も彼もが頭を下げて俯いていた。
「ここにいる間不自由はなかったか?」
「…みんな、よくしてくれたよ」
「そうか、では後で皆に菓子でも配ってもらうことにしよう」
レヒトはおれに手を伸ばす。
くすんだ灰色や茶色の空間で、レヒトだけが異質だった。一人だけ輝いているみたいに見えた。白いシャツは真珠が中からピカピカ光っているみたいだし、青い上着は青空より濃い色だし肌も艶々していた。
おれも含めて周りがあまりにも埃や垢じみて汚れて見えた。
「さぁ行こう」
そう言ってレヒトはおれの手首を掴んだ。
手を引かれて、扉のところで振り返った時に顔を上げたあの子と目が合った。
憎い、汚いものを見るようにおれを見ていた。
震えるくらい恐ろしい眼差しだった。
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