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 ―― 日常の快楽(19)

 玄関に揃えて置いてある大きな男物の靴が目に入ると、胸の鼓動がまた早くなった。  靴を脱ぐのももどかしくて、意識はもう居間へ向かってる。  鞄を玄関に置き去りにして、廊下を歩きかけたけど、やっぱり思い直して、バラバラに脱ぎ捨てた自分の靴を揃えに戻る。  先に置いてあった大きな靴の隣に、自分の靴を並べると、嬉しくて口元が緩んでしまう。  逸る心を抑えながら、居間に入ると、期待していた人の姿はなくて、しんと静まり返っていた。 「…… ただいま」  小さく呟くように声を出してみると、台所からタキさんが、ひょいっと顔を出した。 「あ、伊織坊ちゃん、お帰りなさい」  タキさんは、僕が物心ついた時には、もうこの家で通いの家政婦をしていて、僕にとっては家族同然の人。 「タキさん、あの……」 「お帰りになってますよ」  タキさんはにっこりと微笑んで、僕が言葉にするよりも速く、先回りして訊きたいことを言ってくれた。 「何処にいるの? 書斎?」  そう訊きながらも、早く会いたくて書斎へ向かおうとする僕を、「あ、ちょっと待ってください」と、タキさんの声が呼び止める。 「伊織坊ちゃん、走って帰ってきたんですか? 凄い汗ですよ」 「…… あ……」  言われて、自分が随分と汗を掻いている事に気が付いた。  いくら気候が良い時期だと言っても、今日みたいな天気の良い昼間に、駅からずっと坂道な上に、あの階段を走って上ってきたんだから当然だった。  さっき着替えたばかりの制服のシャツも汗で少し濡れていた。  こめかみから伝い落ちてくる汗を、手の甲で拭っても、またすぐにじわりと額に浮いてくる。  タキさんは笑いながら、冷蔵庫からミネラルウォーターを出して、コップに注いでくれた。 「先にシャワーで汗を流してきた方が良いんじゃないですか?」  僕が一気に飲み干した空になったコップを受け取りながら、タキさんが言う。 「そうだね。 そうする」  早く会いたいけれど。あの人は身だしなみに厳しい。 「お着替え出しておきますから、さっと浴びてきてください。 その間にお昼のご用意もしておきますね」 「あ…… 昼食はいらないよ」  あまり食欲がない。 「駄目ですよ。朝も食べていないのに……」 「大丈夫。 後で絶対食べるから。 それよりシャワー浴びてくるね」  タキさんの小言が始まると長くなってしまう。 僕はタキさんの言葉を最後まで聞かずに風呂へ向かった。

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