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 ―― 日常の快楽(21)

 少し薄暗い部屋の東側の窓辺に置いてあるデスクで、椅子に座っている後ろ姿は逆光で影なっている。  壁の全てを隠してしまっている本棚に囲まれた部屋。  机に向かって座っているその人が燻らせる煙草の香りが鼻腔をくすぐる。 「…… 父さん」  僕が声をかけると、その人は椅子を回転させて、ゆっくりと振り向いた。 「伊織、遅かったね」 「…… ごめんなさい。 汗を掻いたので、先にシャワーを浴びてきたんだ」  そうか。 と、言って、父は煙草を灰皿に押し付けて消した。 「おいで、伊織」  スッと伸ばされた手に、心が躍るのを抑えきれずに、僕は父の元へ走っていく。  椅子に座っている父の首に抱きついて、お帰りなさい。 と、言おうとして、泣きそうになるのを唇を噛み締めて堪えた。  父、鈴宮 武志(すずみや たけし)は、僕にとっては、たった一人の本当の家族。 だけど、血の繋がりはない。  母が父と出逢った時は、既に僕は母のお腹の中にいたから。  父は、母が他の男の子供を妊娠していると知っていて、それでも結婚した。  僕がその事実を、母が交通事故で亡くなった時から数年経ったある日、中学1年になって、突然知ることになった。  いきなり訪ねてきた、僕の本当の父親だと名乗る男の口から。  ―― 『君は、沙織によく似ているね』――  僕の実の父親だと名乗る男には子供がいなくて、だから僕を引き取りたいと言った。  僕は否定した。 そんなの認めない。 僕の父親は世界でただ一人、鈴宮 武志だけ。  既婚者でありながら母を妊娠させて、亡くなるまで知らない顔をしていた男なんて、父親だとは認めない。  母が愛したのは、あんたなんかじゃない。 鈴宮 武志だけなのだから――  「伊織…どうした?」  父さんの肩に顔を埋めている僕の後頭部を、そっと撫でてくれる優しい手。  顔を上げると、覗き込むように僕を見つめる父さんの瞳と視線が絡み合う。 「お帰りなさい」 「ただいま」  普通に交わし合う挨拶の言葉が合図のように、お互いの唇が重なった。

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