30 / 330
―― 愛執(9)
家に帰ると、玄関に見たことのない男物の革靴が揃えて置いてあった。
(…… お客さんかな…… ?)
お客さんなら、邪魔しちゃいけないかなと思って、洗面所で手を洗って、居間には寄らずに二階の自分の部屋に行った。
部屋に入るとまず、勉強机の引き出しの一番上を開けて、写真立を取り出すのが僕の毎日の日課。
「ただいま、母さん」
写真の中で笑っている母さんは、いつまでも若くて、綺麗だ。
父さんは、家に仏壇を置かなかった。 お位牌も無い。
未だに認めていないんだ。母さんが死んだことを。
写真とかも全部、見えないところにしまっているのか、分からないけれど。 僕の手元には、この写真しか残っていない。
だから父さんに見つからないように、僕はここでこっそりと母さんに会っていた。
普通に日々が過ぎていくと、段々と薄れていってしまう記憶。
小さい時、3人で暮らした幸せな日々は、もう朧げではっきりと情景が浮かんでこない。
だから、毎日写真を見ながら、少しでも多く小さい頃のことを思い出そうとしていた。
「母さん、今日ね、友達とお祭りに行くんだ。 浴衣を着て行くなんて嘘ついちゃったけど」
『…… 嘘はダメよ、伊織』
こんな時、母さんはきっと優しく怒ってくれるのかな。
その時、下から階段を上がってくる足音にが聞こえてきて、僕は慌てて写真を机の中に片付けた。
(父さんの足音じゃ、ないな)
足音の違いで、僕は少しホッと胸を撫で下ろした。
「伊織坊ちゃん、お帰りですか?」
「―― うん」
「旦那様が、すぐ下に降りてくるようにと」
「今から着替えて、すぐ行くよ」
「制服のままで良いから直ぐにと、仰られていますよ」
(どうしたのかな)
不思議に思いながら、僕は部屋のドアを開けた。
「お客さんが来てるんだよね?」
「はい。 多分、その方が伊織坊ちゃんにお会いしたいと、仰っていると思いますよ」
(誰だろう……。 僕に会いたいんなら、仕事の関係の人じゃないだろうし)
階段をタキさんより先に降りながら、「あ、そうだ」と、肩越しに振り返った。
「ねえ、僕の浴衣なんてないよね?」
僕がそう言うと、タキさんは少し驚いたような顔をして、でもすぐに「お祭りに行かれるんですね?」と、訊いてきた。
僕が頷くと、タキさんは、「ありますよ。 伊織坊ちゃんの浴衣」と言って、にっこりと笑顔を零す。
「え? 本当? 作ってくれていたの?」
「私じゃないですよ。 奥様が、子供は直ぐに大きくなるから。 と言って、何枚か作ってあったのがあるんですよ」
(そうなんだ!)
僕が嬉しそうに笑ったからか、タキさんも嬉しそうに「後でご用意しておきますね」と笑ってくれた。
「じゃあ、後でね」
階段を降りたところでそう約束して、僕だけ居間へ向かった。
ともだちにシェアしよう!