32 / 330
—— 愛執(11)
「沙織は、僕に何も言わずに僕の前から去ってしまって。 僕はてっきり振られたんだと思ってた」
困惑している僕の気持ちなんてお構いなしに、その人は話続けた。
「だけど、違ったんだね。 沙織は君を妊娠したことで、僕に迷惑を掛けたくなかったんだろう」
(…… この人は、いったい何のことを言ってるんだ……)
「沙織と別れてから、僕は仕事で日本を離れていて、彼女が亡くなった事を人伝に訊いてね。 それで彼女に子供がいることも、初めて知った」
そして、僕の目を真っ直ぐに見つめてくる。
「君は、確かに僕の子供だよ。 伊織くん」
「そんなの…… 分かんない…… じゃないですか」
僕が、この人の子供だという証拠なんて、何処にも…… ない。
「君を妊娠したと分かった頃、鈴宮さんは沙織と知り合っていなかったはずだよ。 そうですね? 鈴宮さん」
そう問われても、父さんは何も言わない。
「君と、鈴宮さんが 親子ではないという事は明確なんだ。 彼女が僕の他に、誰かと関係があったなんて事も考えられないし」
その人は、誰が見ても分かるくらいには、愛おしそうな眼差しを僕に向けている。
だけど…… それが自分の事だとは、どうしても思えなくて、まるで他人事のように感じていた。
「…… 伊織くん、私のところに戻ってきては、くれないだろうか」
だって、そんなこと!信じられない。 生まれた時からずっと、僕の父さんは鈴宮武志だ。 それ以外なんて考えられない。
今はもう、父さんがどこかに片付けてしまったけれど、ちゃんと生まれた時の写真には、父さんが写ってた。 あのアルバム…… そうだ、あのアルバムを見たら……。
「父さん、僕が生まれた時のアルバム、どこにあるの? あれを見たらこの人だって、僕が父さんの子供だって、分かるはずだよ」
頭の中の整理ができなくて、僕は思い付くままに口に出していた。
そのアルバムがあったとしても、僕が父さんの子供だという証拠には、なるはずもないのに。
でもその時の僕は、藁にでも縋りたい気持ちだった。
父さんは、腕組をしたまま、漸く目を開けて、僕を見つめた。
ともだちにシェアしよう!