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 —— 愛執(11)

「沙織は、僕に何も言わずに僕の前から去ってしまって。 僕はてっきり振られたんだと思ってた」  困惑している僕の気持ちなんてお構いなしに、その人は話続けた。 「だけど、違ったんだね。 沙織は君を妊娠したことで、僕に迷惑を掛けたくなかったんだろう」 (…… この人は、いったい何のことを言ってるんだ……) 「沙織と別れてから、僕は仕事で日本を離れていて、彼女が亡くなった事を人伝に訊いてね。 それで彼女に子供がいることも、初めて知った」  そして、僕の目を真っ直ぐに見つめてくる。 「君は、確かに僕の子供だよ。 伊織くん」 「そんなの…… 分かんない…… じゃないですか」  僕が、この人の子供だという証拠なんて、何処にも…… ない。 「君を妊娠したと分かった頃、鈴宮さんは沙織と知り合っていなかったはずだよ。 そうですね? 鈴宮さん」  そう問われても、父さんは何も言わない。 「君と、鈴宮さんが 親子ではないという事は明確なんだ。 彼女が僕の他に、誰かと関係があったなんて事も考えられないし」  その人は、誰が見ても分かるくらいには、愛おしそうな眼差しを僕に向けている。  だけど…… それが自分の事だとは、どうしても思えなくて、まるで他人事のように感じていた。 「…… 伊織くん、私のところに戻ってきては、くれないだろうか」  だって、そんなこと!信じられない。 生まれた時からずっと、僕の父さんは鈴宮武志だ。 それ以外なんて考えられない。  今はもう、父さんがどこかに片付けてしまったけれど、ちゃんと生まれた時の写真には、父さんが写ってた。 あのアルバム…… そうだ、あのアルバムを見たら……。 「父さん、僕が生まれた時のアルバム、どこにあるの? あれを見たらこの人だって、僕が父さんの子供だって、分かるはずだよ」  頭の中の整理ができなくて、僕は思い付くままに口に出していた。  そのアルバムがあったとしても、僕が父さんの子供だという証拠には、なるはずもないのに。  でもその時の僕は、藁にでも縋りたい気持ちだった。  父さんは、腕組をしたまま、漸く目を開けて、僕を見つめた。

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