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—— 愛執(25)
この事で父さんに迷惑をかけるような事だけは、避けたい。 できるなら、父さんにだけは知られたくなかったのに。
助けてもらえてホッとするのと同時に、知った顔に出会ってしまった事に内心焦りを感じて、背中に嫌な汗が伝う。
「君、唇に付いてるの、血じゃないのか?」
そう聞かれて、僕は慌てて手の甲で自分の唇を擦った。
「…… 何でも、ないんです……。 あの…… ちょっと絡まれただけですから」
そう……。 僕が黙っていたら、僕が忘れさえすれば、男達にされた事は、無かった事になる。
身体や心が傷つく事なんて、よくある話。
そのことを誰にも知られさえしなければ、無かったことにできるのだから。
「でも、怪我をしているのに……、顔を憶えてるなら警察に一緒に行って……」
「いえ、本当に! 少し絡まれただけで、怪我も全然平気ですから。…… あの、僕、これで失礼します。 本当にありがとうございました。」
僕は神主さんに深く頭を下げ、そのまま背を向けて、逃げるように全力で駆け出した。
「え、おい、君! ちょっと待って……」と、呼び止める声が後ろから聞こえたけど、立ち止まることも、振り向くこともしなかった。
(—— 警察なんて冗談じゃない)
そんな事をしたら、菜摘ちゃんだって事情を聞かれる事になってしまう。 それだけは絶対ダメだと、少し考えれば分かる事。
菜摘ちゃんも、あんな奴等に身体を触られて、きっとショックに違いない。
女の子なんだから。 僕よりもきっと……。
これ以上事を大きくしたら、もっと傷つくことになる。
大した事は、無かったんだ。 気にする事なんて、何もないんだ。
そう自分に言い聞かせて、行きは菜摘ちゃんと手を繋いで上った階段を、一人で下りた。
何でもない、何も無かったと、自分に言い聞かせながら。
だけど…… 歩く度に確かに感じる、後孔の引きつるような痛みに、泣きたくないのに涙が目尻に滲んでくる。
階段を下りると、花火が終わって帰っていく人達の波が駅方面へ流れをつくっていた。 その波に紛れてしまえば、もう誰も僕に気付いたりなんかしない。
菜摘ちゃんはどうしただろう。 皆と待ち合わせをしていた場所に行ったんだろうか。
僕は…… だけど…… そこには行けない。
今は…… 誰にも会いたくないし、会えないと思った。
歩くと、痛くて疼く傷口。
だけど、痛いのは怪我をしたところだけじゃないと、自分でもちゃんと分かってた。
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