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―― 愛執(26)
誰にも会わないように、誰にも見られないように俯いて、ただひたすら家への路を歩いた。
痛む身体を引き摺るように、駅の近くの階段を上がるころには、後ろだけでなく、蹴られた鳩尾や背中も軋むように痛みだした。
この時間なら、階段の中腹辺りで振り向けば、美しい夜景を見ることが出来る。 僕の大好きな場所だけど、今日は周りの景色なんて楽しむ余裕なんてなかった。
漸く階段を上り切ると、僕の家が見えてくる。
(…… 灯りが点いてない……)
タキさんは、もうとっくに帰っている時間なのだけど……。
(父さんは、まだ帰ってないのかな)
誰も居ないことに少し安堵しながら、玄関横の植木鉢を退かして鍵を取り出した。
「…… ただいま……」
誰も居ない真っ暗な家の中に向かってそう言ってみると、今まで堪えていた涙が、次から次へと零れ落ちた。
「う……」
本当に誰も居なくて良かった。
上り框に腰掛けて、そのまま力が抜けたように廊下に仰向けに寝転がった。
(―― 父さんが帰ってくるまでに、お風呂を済ませて布団に入らないと)
今夜は顔を合わせたくない。
そう思うのに、脱力してしまった身体を、なかなか起こすことが出来ずにいた。
「あ…… 玄関の鍵……」
閉め忘れたことを思い出して何とか上体を起こすと、引き戸のガラスに人影が映って心臓が跳ねた。
「…… だ、だれ……っ」
この時間に家に来る人なんて一人しかいないのに、その時は本当に判断出来ずに、驚いて震えあがってしまった。
カラリと音を立てて玄関の引き戸が開く。 入って来たのは、珍しく酔っているのか、少し足元が覚束ない感じの父さんだった。
「…… どうしたんだ伊織。 電気も点けないで、そんな所に座り込んで」
父さんは後ろ手に引き戸を閉めると、玄関の電気を点けて、僕の隣に腰掛けた。
「…… おい、その顔……」
俯いた僕の顎を捕えて、父さんは顔を近づけてくる。
ふわりと顔にかかった酒の匂いのする父さんの息に、さっきの男達を思い出してしまう。
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