50 / 330
―― 愛執(29)
「――っ、父さん、ごめ…… ごめんなさ……」
僕は父さんにしがみき、濡れたシャツに顔を埋めて、ただ泣いて謝る事しかできなくて。
浴室に響くシャワーの音を聞きながら、父さんの言葉を待っていた。
期待していたのは……、僕を赦してくれる言葉だった。
「…… 私はずっと……、」
低い声で耳元に囁いて、僕の身体を抱き締めていた手が背中を滑り髪を撫でる。
両手で頬を包まれて、顔を上に向かされた。
「…… とう…… さん、」
繊細な指で僕の濡れた頬を拭い、「ずっと否定し続けていた」と、言葉を続ける。
雫の落ちる前髪の隙間から、その瞳に見つめられると、まるで金縛りにでも遭ったみたいに、視線を逸らすことは出来なくなる。
「伊織は、私の息子なのだからと」
今までに聴いた事のない声音と、今までに見た事のない眼差し。
「…… だけど、時間が経てば経つほどに、お前はどんどん似てくる」
父さんの親指が僕の唇に触れて、なぞるように動いた。
「触れてはいけないと、何度も自分に言い聞かせていたのに」
鼻先が触れ合うほどに、父さんの顔が近付いて…… それでも僕は身じろぎもせずにいた。 ―― 身体が動かなかった。
そっと重ねられた唇の意味も、その時の僕には分からなかった。
柔らかく啄ばまれて、まだ触れ合うほどの近い位置で、父さんの唇が言葉を紡ぐ。
「だけど見ず知らずの男に、穢されるくらいなら……、」
父さんが口にした言葉の意味は、最初は分からなくて何度も頭の中でその言葉を繰り返した。
頭の中の整理がつかないうちにまた唇か重なって、そこで僕は漸く我に返り、父さんの胸を軽く押し返した。
「…… ッや、だ。 なんで……」
顔を背けて、やっとの思いで出せた声は掠れていて、少しも拒否の言葉には聞こえなかっただろう。
でも父さんは、それが聞こえたのか、聞こえなかったのか、「身体を洗いなさい」とだけ言って、僕から離れて自分の濡れた服を脱ぎ始めた。
ぐっしょりと濡れたシャツと下衣を脱いで、水音を立ててタイルの床に落とすのを、視界の隅に入れながら、僕は言われた通りに身体を洗っていた。
父さんも隣で髪と身体を手早く洗うと、僕を残して無言で浴室から出て行ってしまう。
独りになった浴室で小さく溜め息を吐いていると、扉の向こうから「今夜は早く寝なさい」と、父さんの声がする。
「え…… ?」
慌てて浴室の扉の方を見たけれど、磨りガラスの扉の向こうには、もう父さんの気配は無くなっていた。
ともだちにシェアしよう!