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 —— 愛執(30)

 浴室の扉を見つめながら、自分の唇にそっと触れてみた。 「…… さっきのは……」  何だったんだろう……。  確かにここに重ねられたのは、父さんの唇だった。  すごく小さい時に、僕が母さんの頬にキスするようなことはあったけど。 そういうのとは、やっぱり違うような気がした。  でも…… どうして……? 『…… 時間が経てば経つほどに、お前はどんどん似てくる』 『だけど、見ず知らずの男に、穢されるくらいなら……』  さっき父さんが苦しそうに呟いた言葉を、頭の中で何度も繰り返して考えてみた。  それでも…… どうしてなのか分からなくて、余計に混乱してしまう。 「…… ッ、」  身体を洗う泡が後孔に染みる痛みに、思考は途中で途切れた。  —— 今夜の父さんは珍しく酒に酔っていた。いつもはいくら呑んでもあんな風に酔ったりしない。  それに、僕があんな事になったのを、知ってしまって…… だからきっと…… 父さんも混乱してしまったんだと思う。  さっき苦しそうに呟いた言葉も、重ねた唇も、何かの間違いで……。 そうだ、あれはキスなんかじゃなくて……。  だったら何だったのか…… いくら自分に問うてみても分からないけど。 それはもしかしたら父さんにも分からない。  アルコールの所為だと片付けてしまうのが、一番簡単だった。  もしかしたら、明日になったら、父さんは今夜の事を、憶えてないかもしれない。  僕が、男達にされたことも、きっと忘れてくれてるかも。 —— だから僕もさっさと忘れよう。  この身体の痛みさえ無くなれば、きっと悪い夢を見ただけだと、自分でも思えるに違いない。  女の子の菜摘ちゃんじゃなくて、僕で良かった。 —— 僕は、男だから、きっと忘れる事ができる。  そう考えると、少しだけ気持ちが楽になった気がして……、痛む身体を我慢して、ボディーソープを泡立てて、何度も洗った。  そうすれば男達に触られた記憶も、泡と一緒に消えてくれるかもしれないと思った。  **  浴室から出て、髪と身体をバスタオルで包むようにして水気を拭き取り、タキさんが予め置いてくれてあるパジャマを着る。  後孔の傷口は、もう血は止まっているようだし、きっと少し切れただけなんだろうけど、引きつるような痛みはなかなか治まらない。  何か塗り薬がなかったかなと、救急箱を探しに居間のドアを開けると、薄暗い灯りの室内で、グラスにブランデーをなみなみと注いで、一気に飲み干す父さんの姿があった。

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