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 ―― 偽り(16)

(―― 逃げなくちゃ……)  頭の中はそれしか考えられなくて、男を無視して早足で歩き始めると、車もまたそれに合わせてついてくる。 「いーおーりーちゃんー。あれ? つれないなぁ」  男の声があまりに大きくて、先に歩いている同じ中学の生徒達が振り返ってこちらを見ている。 「車に乗っちゃった方がいいんじゃないのー?」  男は窓から顔を出して、周りに見えるように僕に話しかけてくる。 (そうだ、思い切り走ってあの階段を上ったら、車だからついてこれないかもしれない)  そう思った矢先に、男の言葉がそれを止める。 「俺は別にいいけどさ。あの子……菜摘ちゃんだっけ? 男より女の方がいいに決まってるし」  その言葉に仕方なく立ち止まって振り返ると、男はニヤニヤとしながら後ろの方を指差した。  同じ中学の生徒達が歩いている列のずっと後方に、菜摘ちゃんの姿が見えた。ここで僕が逃げても、この男は菜摘ちゃんを車に連れ込んでしまうかもしれない。  いや……それとも、ここで大声で助けを呼んだら……。 「おとなしく乗った方がいいと思うよ? 菜摘ちゃんに迷惑かけたくないんだろ?」  頭の中で、できるだけ最善の方法をぐるぐると考えていた僕を、嘲笑うかのように男が言った。 (確かに……ここで騒げば助かるかもしれないけど……) 『……誰にも言わないでくれる?』  さっき菜摘ちゃんが言った言葉が蘇って、僕は騒いで助けを呼ぶことを躊躇していた。 「お前の親父さんて、小説家の鈴宮武志なんだってな」  最後の切り札を出したと言わんばかりに、車の中から僕を見上げて男は笑った。そして低い声で、命令される。 「早く乗れ」  立ち止まって男と話している僕を、後ろから下校する生徒達が次々と追い越して行く。皆、少し不思議そうに振り返りながら。でも何もなかったように、また友達と会話をしながら行ってしまう。   ちらりと後ろの方を見やると、菜摘ちゃんが見えた。こちらに気付いたのか、立ち止まりそうな速度で歩いているのが分かる。 「ほら、早くした方がいいんじゃねーの」  急かすように促されて、僕は仕方なく助手席のドアを開いて男の車に乗り込んだ。  すかさず、ドアロックのかかる音がする。 「ふん、手間かけさせやがって」  男は咥え煙草を深く吸い、口の端から僕の顔に煙を吹き付けて、にやりと笑う。 「じゃ、行こうか」  車がゆっくりと動きだした。  下校していく生徒達の列が、景色と共に流れていくのを、僕はただ呆然と眺めることしかできずにいた。

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