82 / 330
―― 偽り(23)
*****
その夜遅くに家に帰ると、タキさんはもう帰っていて、夕飯が食卓の上に置かれていた。
その横にあったメモに、僕が帰って来ないからすごく心配した事が書かれていて、最後に帰ったら連絡するようにと付け足されていた。
父さんがいなくなってから食欲が湧かなくて、今日も相変わらずあまり無いけど、折角作ってくれた食事だから少しだけでもと、無理やり口に運んだ。
帰って来ない僕の事を、きっとすごく心配していて、電話したら怒られるだろうな。
タキさんの作るご飯は、本当に美味しいのに……。 今の僕は、殆ど味が分からなくなっていた。
目の前の食事がぼやけて見えて、気が付くと頬に熱いものが一筋流れていた。自分で濡れた頬を触って、それが涙だと気付く。
僕は、なんで泣いたりしてるんだろう。
小さい時からお世話になってるタキさんに、心配をかけさせてしまったから?
父さん以外の…… あの憎んでいる筈の男に抱かれてしまったから? しかも快楽を感じて自らも求めてしまったから?
どれも違うような気がしていた。
――『伊織、明日も来いよ。 そうじゃないと、お前の大切な菜摘ちゃんや親父さんに迷惑かける事になるからな』
家の近くまで車で送ってくれた男は、最後にまた脅しの言葉を口にしていた。
菜摘ちゃんや父さんに迷惑をかける事だけは、絶対に駄目だと思う。 それだけは阻止しなければならない。
『お前はもう俺だけのものだからな』
行為の後、男はそう言って、優しいキスを何度も繰り返した。
父さんのとは違う、煙草のヤニの味がするキスなんて、嫌なだけなのに。そしてその行為にはきっと愛なんか無くて、男は初めて男を抱いた経験に、ただ興奮しているだけだろうけど。
僕は…… 大事なものを守る為なら、本心を隠して欺く事だって容易く出来る。
でも男に脅されなくても、僕はきっとまた男に会いに行く。
そんな自分が、どうしようもなく汚く思えた。
ともだちにシェアしよう!