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 ―― 偽り(23)

 *****  その夜遅くに家に帰ると、タキさんはもう帰っていて、夕飯が食卓の上に置かれていた。  その横にあったメモに、僕が帰って来ないからすごく心配した事が書かれていて、最後に帰ったら連絡するようにと付け足されていた。  父さんがいなくなってから食欲が湧かなくて、今日も相変わらずあまり無いけど、折角作ってくれた食事だから少しだけでもと、無理やり口に運んだ。  帰って来ない僕の事を、きっとすごく心配していて、電話したら怒られるだろうな。  タキさんの作るご飯は、本当に美味しいのに……。 今の僕は、殆ど味が分からなくなっていた。  目の前の食事がぼやけて見えて、気が付くと頬に熱いものが一筋流れていた。自分で濡れた頬を触って、それが涙だと気付く。  僕は、なんで泣いたりしてるんだろう。  小さい時からお世話になってるタキさんに、心配をかけさせてしまったから?  父さん以外の…… あの憎んでいる筈の男に抱かれてしまったから? しかも快楽を感じて自らも求めてしまったから?  どれも違うような気がしていた。 ――『伊織、明日も来いよ。 そうじゃないと、お前の大切な菜摘ちゃんや親父さんに迷惑かける事になるからな』  家の近くまで車で送ってくれた男は、最後にまた脅しの言葉を口にしていた。  菜摘ちゃんや父さんに迷惑をかける事だけは、絶対に駄目だと思う。 それだけは阻止しなければならない。 『お前はもう俺だけのものだからな』  行為の後、男はそう言って、優しいキスを何度も繰り返した。  父さんのとは違う、煙草のヤニの味がするキスなんて、嫌なだけなのに。そしてその行為にはきっと愛なんか無くて、男は初めて男を抱いた経験に、ただ興奮しているだけだろうけど。  僕は…… 大事なものを守る為なら、本心を隠して欺く事だって容易く出来る。  でも男に脅されなくても、僕はきっとまた男に会いに行く。  そんな自分が、どうしようもなく汚く思えた。

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