153 / 330
―― 陽炎(5)
「なあ、俺の足が治ったら、今度海まで歩いてみないか?」
慎矢は、眩しそうに目を細めながら、遠くに見える海へ視線を飛ばした。 その隙に、僕はさりげなく窓から離れて、ベッドに腰掛ける。
「嫌だよ、遠いもん」
「そうかなぁ、あの川沿いの道を行けば、結構近いと思うけどなぁ……」
「行きたければ、一人で行けば?」
素っ気なく言えば、慎矢は笑いながら、「独りで歩いても面白くないだろが」と返した。
窓から身を乗り出して遠くを眺めている慎矢の髪を、五月の爽やかな風が揺らしている。
こうやって、他のことを話していれば、きっとすぐに気は紛れる、と思っていた。
「ま、今は何処にも行けないってことで、テスト勉強でもしようか」
「勉強なんて、かったるい」
「かったるくても、するの。 ほら、勉強道具出しなよ。 伊織は何が苦手? 俺、数学くらいなら教えてやれるかも……」
「教科書なんて、全部学校に置いてあるし」
「え? 全部? 駄目じゃん、テスト前なのに。 なら、問題集とか…… あ、宿題のプリントとか、もうやったのか?」
「プリント? 知らない」
「伊織……」
そこで慎矢は絶句して、呆れ顔で僕を見る。
「お前、それじゃ追試になっちまう。 進路だってどうするのか、ちゃんと考えてるのか?」
「そんなの、考えてない。 追試だって、今までも受けたらちゃんと通ってるし。 そんなに心配しなくても……」
そう……勉強なんてしなくても、あの高校なんて簡単に卒業できる。今まで通りにしていれば……。
卒業したら……? そんな先の事なんて、僕には何も考えられなかった。
「なあ、そんなんじゃ、この先どうすんの?」
せっかく距離をとっていたのに、慎矢は僕の隣に腰を下ろした。ベッドのスプリングが微かに揺れて、僅かに触れた肘に神経が集中してしまう。
「……別に……何も考えてない」
「俺も、そんな成績がすごく良い訳じゃないけどさ、分からないところは一緒に考えて勉強してみない?」
宥めるようにそう言って、頭を撫でようとする慎矢の手を、僕は反射的に掴んでしまった。
「……伊織?」
「もう……勉強の話は、いいよ……それより」
掴んだ慎矢の手を、しっかりと握り直す。
(慎矢が悪いんだ。そうやって、何も知らないことが一番残酷だ)
握った手をそっと自分の頬に触らせて、困惑している慎矢を見上げた。
ともだちにシェアしよう!