157 / 330
―― 陽炎(9)
*****
駅前の横断歩道を渡って、小さな路地を入った数メートル先にある、斜面に沿って続く長くて急な石の階段。
不揃いな幅の階段は、ゆっくりと上っても、少し息が上がってくる。
僕は、中腹辺りでいつものように足を止めた。
幅の広い部分に休憩用のベンチが置かれているけれど、そこには座らず、階段の端に直接腰掛けた。
この位置から見渡せる街並み。この目線から見える景色が一番好き。
だけど、今の僕には、その綺麗で大好きな景色も目に入らなかった。さっきから俯いて、石の階段の隅を歩いている蟻の行列を眺めている。
太陽が一番高いところにある時間帯は、五月だけどジリジリと強い陽射しが、半袖のシャツから出ている腕に照り付ける。
シャツの下の肌が、じんわりと汗ばんでいるけれど……なかなか家に帰る勇気が出ない。
……あの後、慎矢は、何事もなかったように笑っていた。
僕は、言い様のない後味の悪さを感じていて、その先を続けたいとは思わなかった。
それでも、慎矢のベルトを外そうとすると、慎矢は、僕の手をやんわりと掴んで、『俺は、いいよ』と言った。
慎矢のそこも 服の上からでも分かるほど、キツそうだったのに。
『好きでもないやつに、そんなことしちゃ駄目だよ』
あの状況を作ったのは、他でもない僕なのに。
『いいから勉強しよう』と、机の上に勉強道具を出している慎矢に、僕は、咄嗟に嘘を吐いたんだ。
『ちょっとシャーペンの芯が切れてるから、買ってくる』
『え? そんなの、俺のやるよ!』
だけど僕は慎矢の声を無視して、慌ててその場から逃げるように、家を出てきた。
僕のことを好きだから抱けないと言った慎矢に、僕がさせてしまった行為は、罪悪感しか残らなくて。……居た堪れなくて。
僕も慎矢のことを好きだったら……良かったのに。
でも、僕の心の大半は、父さんのことで埋め尽くされているんだ。
あの人に、必要とされたくて、あの人に愛されたくて。 その事ばかり考えてきた。
あの遠い、夏の日からずっと。
いつか、僕なんか要らないって言われるんじゃないかって、そんな不安ばかりが募ってしまう。
そのことを考えると、胸が押し潰されそうで、息苦しくなってきて、僕は座ったまま背筋を伸ばして、深く息を吸って吐き出した。
――どれくらい、ここで時間を潰していたのだろう。
その時、後ろから階段を下りてくる足音に気付く。
少し地面を擦るような不規則な足音に、(もしかして……)と、振り向けば、慎矢が痛めた足を庇いながら、階段を下りて来る姿が見えた。
ともだちにシェアしよう!