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 ―― 陽炎(9)

 *****  駅前の横断歩道を渡って、小さな路地を入った数メートル先にある、斜面に沿って続く長くて急な石の階段。  不揃いな幅の階段は、ゆっくりと上っても、少し息が上がってくる。  僕は、中腹辺りでいつものように足を止めた。  幅の広い部分に休憩用のベンチが置かれているけれど、そこには座らず、階段の端に直接腰掛けた。  この位置から見渡せる街並み。この目線から見える景色が一番好き。  だけど、今の僕には、その綺麗で大好きな景色も目に入らなかった。さっきから俯いて、石の階段の隅を歩いている蟻の行列を眺めている。  太陽が一番高いところにある時間帯は、五月だけどジリジリと強い陽射しが、半袖のシャツから出ている腕に照り付ける。  シャツの下の肌が、じんわりと汗ばんでいるけれど……なかなか家に帰る勇気が出ない。  ……あの後、慎矢は、何事もなかったように笑っていた。  僕は、言い様のない後味の悪さを感じていて、その先を続けたいとは思わなかった。  それでも、慎矢のベルトを外そうとすると、慎矢は、僕の手をやんわりと掴んで、『俺は、いいよ』と言った。  慎矢のそこも 服の上からでも分かるほど、キツそうだったのに。 『好きでもないやつに、そんなことしちゃ駄目だよ』  あの状況を作ったのは、他でもない僕なのに。 『いいから勉強しよう』と、机の上に勉強道具を出している慎矢に、僕は、咄嗟に嘘を吐いたんだ。 『ちょっとシャーペンの芯が切れてるから、買ってくる』 『え? そんなの、俺のやるよ!』  だけど僕は慎矢の声を無視して、慌ててその場から逃げるように、家を出てきた。  僕のことを好きだから抱けないと言った慎矢に、僕がさせてしまった行為は、罪悪感しか残らなくて。……居た堪れなくて。  僕も慎矢のことを好きだったら……良かったのに。  でも、僕の心の大半は、父さんのことで埋め尽くされているんだ。  あの人に、必要とされたくて、あの人に愛されたくて。 その事ばかり考えてきた。  あの遠い、夏の日からずっと。  いつか、僕なんか要らないって言われるんじゃないかって、そんな不安ばかりが募ってしまう。  そのことを考えると、胸が押し潰されそうで、息苦しくなってきて、僕は座ったまま背筋を伸ばして、深く息を吸って吐き出した。  ――どれくらい、ここで時間を潰していたのだろう。  その時、後ろから階段を下りてくる足音に気付く。  少し地面を擦るような不規則な足音に、(もしかして……)と、振り向けば、慎矢が痛めた足を庇いながら、階段を下りて来る姿が見えた。

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