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―― 陽炎(14)
「何も逃げることないだろう?」
ドアノブに手が届いた瞬間、先生にその手を掴まれて、鍵を掛けられてしまう。
至近距離で、冷酷な眼差しで見下ろされて、僕は思わず顔を背けた。
「別に、逃げたりなんか……」
「人と話す時は、相手の眼を見なさいと、教えただろう?」
顎を捕らえられて視線が絡むと、先生は嘲笑うように口角を上げる。
「用件は、何?」
「言わないと分からないのか? そんな訳ないだろう?」
顎を捕らえていた指が、ゆっくりと下り首筋を撫でていく。
「……っ、テストなら、ちゃんと……」
「そうだね。今回はちゃんと点数も取れていた」
指を、制服のネクタイの結び目に差し込んで解こうとするのを、慌てて両手で押さえて、先生を睨み付けた。
「じゃあ、こんなこと、する必要はない」
先生は「そうかな?」と、口元に笑みを浮かべ、僕から手を離した。そしてくるりと背を向けて、窓際のデスクまで歩いていく。
コツコツと、床を鳴らす足音が、静かな準備室にやけに大きく響いた。
「確かに、今回は追試を受けなくてもいい点数だったが……本当に、君が頑張ったからなのかな」
そう言いながら、デスクの引き出しを開けて、中から錠剤の入ったシートを取り出した。
何のことを言っているのか、意味がわからなくて、僕はただ先生の動きを目で追っていた。
「君は最近、大谷と仲が良いみたいだね」
先生は言葉を続けながら、小さな冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して、僕の方へ向き直る。
その動作に少し遅れて、パタンと冷蔵庫のドアが閉まる静かな音が聞こえた。
「彼は、他の教科は知らないが、数学は学年でもいつも10番以内に入っているんだよね」
長身で脚が長く、日本人離れした均整の取れた身体で歩いてくる姿は、教師というよりはモデルのよう。
いや、冷たくて表情のない、人形だ。
「どうやって、真面目な彼を誘惑したんだい?」
「……?」
「席も隣だしね。カンニングさせてもらったんだろう?」
一瞬、言われた意味がわからなかった。
頭の中で、先生の言葉を反復して、何度もかぶりを振って、叫ぶように訴えた。
「――違うっ!」
いくら僕でも、そんなことまでして、点数を取りたいなんて思わない。
だって、僕にとっては成績なんて、どうでも良いことなんだから。
「カンニングなら、大谷も同罪だな」
「――慎矢は、そんなことしない」
「へえ、」 と言って、先生は笑う。 眼鏡の奥の瞳は、全然笑っていないのに。
「何なら今まで君が追試を免れる為に、何をしてきたのか、大谷に証拠を見せてあげても良いんだよ」
そう言って、先生はデスクの一番上の引き出しを指差した。
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