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―― 陽炎(22)
*****
「……ちょっと待て」
僕の家まで送ってくれた先生は、運転中はずっと無言だった。それなのに、僕が車を下りようとドアに手をかけたところで、思い出したように呼び止める。
「何ですか」
先生は後ろの座席に置いてある鞄を取ると、中から数枚のプリントを出して僕の膝の上に置く。
「未提出分の、週末課題だ」
目を合わせたのは一瞬だけで、いつもの冷たい声でそれだけ言うと、もうフロントガラスの向こうに視線を戻してる。
こんなもの、今までだって真面目に提出した試しがないのは、先生だって分かっている。
形だけでも未提出の生徒に、もう一度提出するように注意した事にしておきたいのだろう。 だから僕も、無言でそれを受け取った。
だけど、そのプリントを鞄に入れようとしている手を、先生は突然掴む。
「……まだ何か」
視線を手元に落としたままそう問えば、「それ、明日の昼休みまでに提出しなさい」と、いつもの冷酷で低い声が返ってくる。
「……これ、全部ですか?」
「そうだ。テストも出来たんだ、復習だと思えば簡単だろう?」
出来たと言っても62点なのに。僕にとっては、簡単じゃないって、分かってるくせに。
「解らないところは、大谷じゃなくて、俺に聞けばいい」
僕は、無言で先生の手を振り払い、車のドアを開けた。
「……明日の昼休み、準備室で待ってるよ」
車を降りようとしている僕の背中に、先生の声が追いかけてくる。
ドアを閉める直前に見えた先生の口元は笑っていた。 冷たい眼差しがまだ火照りの引き切らない身体を貫いていく。
走り去る車を見送りながら、手の中にあるプリントを握り締めた。
こんなの、無視すれば良い。
そう思っているのに、僕また、きっと行ってしまうんだ。 危険だと、分かっていても、今日のように。
テストの点数が取れたから大丈夫だとか、そんな理由を付けて。 結局僕は、あの準備室のドアを自分で開けて、自分から先生の罠にかかりに行ったんだ。
脅されて、慎矢が危険にさらされるよりはマシ。 なんて言い訳しながら、心のどこかで、先生が与えてくれる、あの残酷なまでの快楽を、期待していたんだ。
――『でも僕は、また寂しさを埋めて欲しくなって、誰かにそれを求めるかもしれない』
『その時は、また俺が美味い飯を作ってやる』――
慎矢との約束なんて、きっと始めから……守るつもりなんか無かったんだ。
自分の汚さに、吐き気がする。
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