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―― 陽炎(39)
だけど覚悟していた衝撃はこなくて、代わりに「何やってんだぁ?」と、からかうように笑いを含んだ聞き覚えのある声がして目を開けると、いつの間に来たのか、慎矢の振り上げた右手を掴む凌の姿があった。
「……凌……」
「授業受ける前に煙草を吸える所を探してたら、珍しくここの扉が開いてるし、覗いてみたらさ、なんか面白いことしてるじゃん」
凌は、火の点いていない煙草を口に咥えたままニヤニヤしながら、慎矢の顔を覗き込む。
「……離せよ」
慎矢は静かにそう言って、掴まれた手を振り解いた。
「ふふん、喧嘩でもしたか……。そろそろ伊織のことを持て余す頃だとは思ってたけどな」
さも面白そうに慎矢を見ていた視線を僕へと移し、凌は両手で僕の頬を包んだ。
「だけど、酷く殴られたんだな、顔が腫れてる」
そう言いながら、凌が僕に顔を近づける。それを見ていた慎矢は、逃げるように目を逸らした。
「伊織、そろそろゲームにも飽きた頃なんじゃないか?」
凌の言葉に、僕もクスっと笑いを漏らした。――なんてタイミングよく登場するんだ、と。
「……ゲーム?」
慎矢が逸らしていた視線を、僕に戻す。
「そうだよ。前にも言ったよね? 攻略したら終わる、これはゲームなんだって」
「伊織……」
何かを言いかける慎矢を無視して、凌が僕に唇を重ねてきた。
「ん、んっ」
啄むように音を立てて吸われ、舌が唇を割ろうとするのを、僕は凌の肩を軽く押して顔を背け、拒否をした。
「……やめてよ、慎矢が見てるのに」
「大谷じゃ、満足出来なかったんだろう?」
「満足は出来なかったけど、友達ごっこは、結構面白かったよ」
凌と会話を続けながら、慎矢にチラリと視線を移すと もうその瞳には、僕に対しての怒りと憎しみの色しか見えなかった。
何も言葉を残さずに、慎矢は踵を返して体育倉庫から出て行ってしまう。
胸の奥がズキズキ痛むけどこれで良い。……元に戻っただけなんだから。遠ざかっていく背中を見送りながらそう思った。
「伊織……」
凌が後ろから抱きしめてくるのを、手で押しやって、腕の中からスルリと抜け出た。
「なんだよ、やらせろよ」
「そんな気分じゃないし」
「最近、真面目に勉強してたから、溜まってんだよ」
「そんなの知らない」
僕がそっぽを向けば諦めたのか、「ちっ、時間もないしな」と言いながら、凌は煙草に火を点ける。
「校内特別推薦受けるんなら、こんな所で煙草とか吸ってたらダメなんじゃないの」
お前がチクらなきゃ、バレないよ。と、凌は煙草を咥えたままマットに仰向けに寝そべった。
「じゃ、僕、もう行くね」
「おい、教室に戻るのかよ」
外に出ようとする僕に、倉庫の奥から凌の声が追いかけてくる。
「凌、前にも言ったけど、凌とももう終わりだから」
「は? 何言ってんの」
慌てて立ち上がろうとして、手にしている煙草の始末に困って狼狽えてる。
「来ないで! 追いかけてきたらチクるよ、煙草のこと」
「――って、ちょ、待てよ!」
「じゃ、ごゆっくり、バイバイ」
手をヒラヒラさせながらそう言うと、凌も諦めたように手を上げた。 どうせ、いつもの僕の気まぐれぐらいにしか思っていない。
――これからどうしようかな。
校舎へ向かいながらも、足取りは重かった。あの教室には、もう行く気になれなくて。
でも、もうこれで何もかも終わりにしたらいいんだって思ったら、少し心が軽くなった。
――ああ、なんだか清々したな……。
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