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―― 陽炎(40)
更衣室で制服に着替える頃には、もう本鈴が鳴り終わって授業が始まっている。
教室とは別の場所にある、生徒一人一人に与えられているロッカーの中には、置きっ放しの教科書がいっぱい入ってたけど、
(もう必要ないし……)
鞄だけを手に持って、ロッカー室を後にする。誰もいない静かな廊下に、どこかの教室から授業をする先生の声が聞こえてくる。黒板にチョークを走らせる音や、椅子を引き摺る僅かな音も、時々耳に届く。
僕は足音を立てないように注意しながら廊下を歩いて、昇降口から外へ出た。
正門の扉は、閉まっているけど、鍵が掛かっているわけでもない。手をかけて軽く押すと、小さい音を立てて扉は簡単に開いた。
僕を引き止めるモノなんて、何もない。
駅まで続く石畳みの桜並木の道を、数メートル歩いてから、正門を振り返った。
学校になんて、なんの思い出もない。なんの未練もない。
少しだけ寂しい気がするのは、来年の春に満開になる、ここの桜並木を見る事もなくなるからだ。
電車を降りて、駅前から続く階段の中腹辺りまで来れば、ここで座り込んでいた僕を、痛めた足を庇いながら迎えに来てくれた慎矢を思い出してしまう。
冗談を言いながら家まで戻る階段の途中で、『七月にこの近くで花火大会があるだろう?』と、慎矢が言った。
うん、と応えると、一緒に行こうと誘ってきた。
中学一年のあの夏以来、僕が花火大会に行かなくなったことを慎矢は知らない。
勿論、その理由も知らなくて、中学の時の僕を知っているという誰かからも、その事に関しては詳しく聞いてないようだった。
『僕、花火大会嫌いなんだ。人が多すぎて』
『そうなのか……。あ、でもここからも、よく見えるんじゃないか?』
慎矢の言う通り、川沿いの遊歩道のずっと先にあるグラウンドで打ち上げられる花火は、家の二階からだって、よく見える。
『じゃあ、花火大会、ここから一緒に見ような』
『良いけど……』
――そんな約束もしたっけ……。
あの時、もう見るのも嫌だった花火を、慎矢と一緒になら……と、思ってしまう自分がいた。
――もう、叶うこともない約束。
*
「伊織坊ちゃん、どうしたんですか?」
まだ午前中だというのに、家に帰ってきてしまった僕に驚いて、タキさんが台所から出てきた。
「……なんでもないよ」
タキさんに顔を見られないように背を向けて、玄関の上り框に腰掛けて靴を脱ぐ。
「なんでもないって……え?どうしたんですか? その顔……」
だけど、顔を覗き込まれて、殴られて腫れてしまっているのは、すぐにバレてしまった。
「騎馬戦の練習をしていて、落ちてしまった時に、ちょっと打っただけだよ」
でも……と、まだ言いかけるタキさんを残して、僕は階段を駆け上がった。
部屋の中は、タキさんが掃除をしてくれたばかりなのか、窓が開け放たれている。
「伊織坊ちゃん、顔、ちょっとよく見せてください」
僕が鞄を机に置いたのと同時に、部屋のドアがノックされて、返事をする間も無くタキさんが入ってきた。
「……大丈夫だって言ってるのに……」
「大丈夫じゃないじゃないですか。ちゃんと冷やさないと」
そう言って、タキさんは保冷剤を包んだタオルを僕の頬に当てた。
―― 冷たくて気持ち良い。
「ねえ、タキさん」
「何ですか?」
「父さんに連絡してよ。 話したいことがあるんだ」
タオルを押さえているタキさんの手が、ピクリと反応する。
「本当は、知ってるんでしょう? 父さんがどこにいるのか」
僕がそう言うと、タキさんの瞳に驚きの色が浮かんだ。一瞬の沈黙が流れて、少し湿った風が、カーテンを揺らしていた。
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