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―― 陽炎(41)
「……いえいえ、私は旦那様の連絡先は分かりませんよ。どうしても急用のある時は、出版社の方に連絡するように言われてるだけで」
少しぎこちなく聞こえる、いつも変わらないタキさんの答え。だけど、僕はずっと前から、なんとなく引っかかってたんだ。
中学の時、あの男が警察に捕まって僕が保護された時、どうして、タイミングよく父さんが帰ってきて、警察署まで迎えに来てくれたのか。
あの時は、色んなことが一度に起こりすぎて、そんなことを考える余裕もなかったけれど。他にも、不思議に思うことは、時々あった。
だけどタキさんが、父さんといつでも連絡を取れると言う事は、今の態度ではっきりと分かってしまった。
「大切な話があるんだ」
今までは、その事に気付いていないフリをしてきたけれど、今日はどうしても引きたくない。
「じゃあ、担当の方に連絡取ってもらうように訊いてみますけど……でも大切な話って何ですか?」
先に聞かせて貰えないと、急なこと以外で連絡するなと言われてるので、と続くのもいつもの事。
「……僕、高校を辞めたいんだ。明日から学校行かないつもりだから」
そう言うと、タキさんは驚いて、持っていたタオルを保冷剤ごと床に落としてしまった。
「なんてことを! そんな事、旦那様はお許しにならないですよ」
珍しくタキさんが慌ててる。
そう、こんな事、父さんは絶対許さないと思う。だからこそ、僕が本気だと連絡すれば帰ってきてくれると確信していた。
「……学校で何かあったんですか?」
「……別に」
「ちゃんと辞める理由を教えていただけないと」
「それは父さんに会って、話すから」
でも……と、続けるタキさんの言葉を、僕は強い口調で遮った。
「もう決めたんだ。だからちゃんと父さんに連絡して」
「……分かりました。連絡してみますね」
タキさんは、少し諦めたような表情で、そう言った。
*
タキさんが部屋から出て行って、ベッドに倒れ込むように横になると、無意識に大きな溜め息が出た。短い時間の間に、色んなことがあり過ぎて、なんだかすごく疲れた気がしていた。
―― 父さんは、帰ってきてくれるだろうか。
僕が学校を辞めると言ったら、きっとすごく怒るだろうな。辞めて何かをしたいわけでもないのに、許してもらえるわけもないんだけど。でも、なぜだか今は、無性に父さんに逢いたい。
父さんのことを考えながら、ぼんやりと見つめていた部屋の隅に、リュックが置いてあるのに気付いて、思いだした。
「……あ……」
それは慎矢の荷物だった。
ゴールデンウイークに、初めて慎矢が泊まりに来た時、持ってきた荷物は、その後も、いつでも泊まりに来れるようにって、置いていったんだった。
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