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―― 陽炎(43)
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鬱陶しい雨の季節も、もうすぐ終わる。
一階の庭に面した広縁の窓を開け放つと、時折爽やかな風が家の中を通り抜けていく。
今日は空が高い。
僕が小学校に入学した記念に植えた、庭の桜の木の濃い緑の枝葉が、青い空に美しく映える。
すっかり成長して逞しく眩しい姿で、あの夏の日から前に進めない情けない僕を見下ろしている。
廊下を歩いて、一番東奥の書斎の前で足を止めて、ドアノブに触れてみる。ドアには鍵が掛かっていて、開ける事は出来ない。
そして、その隣の寝室の、中から書斎に入る事のできるドアにも鍵が掛けられていた。
父さんは留守にする時、書斎に鍵を掛けるのは、いつもの事なんだけれど。
カーテンを閉め切った薄暗い寝室で、ひとつ溜息を零して、父さんのベッドに横になった。
もう、すっかり父さんの匂いもしないシーツ。
だけど、部屋の中には、なんとなくまだ、父さんの匂いが残っている。
きっと、閉め切ったままの書斎なら、もっと父さんを感じることが、できるはずなのに。
―― 早く帰ってきて……抱き締めて欲しい。
誰からも必要とされない僕でも、せめて父さんにだけは、ほんの少しだけでいいから、必要とされたい。
そのことを、身体で心で実感したい。
父さんのベッドで、少しうとうとしかけていると、静かな家の中に、玄関のインターホンの音が響いた。
そういえば、今日は朝からタキさんの姿が見えない。
――買い物にでも行ったのかな。
そう思いながら、訪問者のことは無視して、やり過ごそうと、もう一度目を閉じた。
だけど、催促するように鳴る二度目の音が家の中に響いて、仕方なく起き上がり、玄関に向かう。
――もしかして、父さん?
いつもなら、父さんは自分で鍵を開けて入ってくるはずだけど。もしかしたら……と思うと、心臓が壊れたようにドキドキしてきた。
だけど、玄関の引き戸のガラスの向こうに映る人影は、どう見ても、父さんの影ではないと分かってしまい嘆息する。
「どちら様ですか」
あまり確認もせずに、玄関に下りて引き戸を開けてしまい、目の前に立つ人の姿に驚いてしまう。
――全く予想していなかったから。
「……伊織」
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