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 ―― 陽炎(44)

 引き戸を開けた瞬間は目が合って、僕の名前を呼んだくせに、その視線は、すぐに逸らされてしまう。  彼が制服じゃなくて私服を着ている姿に、ずっと家の中に閉じ篭っている僕は、ああ、今日は土曜日だったんだと思い出した。 「……慎矢……」  元気だった?  体育祭はどうだった?  今日は部活は休みなの?  僕にはもう関係のない、どうでもいい言葉ばかりが浮かんでくる。 「……何しに来たの」  聞かなくても分かりきっていることしか、口から出てこなくて、僕も慎矢から目線を外して宙を見つめた。 「……荷物を取りに来たんだ」 「ああ、僕の部屋に置いてあるよ」  うん、と頷く慎矢を家の中に入るように促して、引き戸を閉めた。 「僕はここで待ってるから、自分で取ってきて」  玄関を上がり階段の下で振り向くと、慎矢は伏し目がちに、「うん」とだけ応えて一人で二階へ上がっていった。  慎矢が階段を踏みしめる音が遠ざかり、部屋のドアが開く音がするのを、僕は一階の廊下で壁に凭れて聞いていた。  やがてドアが閉まる音がして、慎矢がゆっくりと階段を下りてくる。  ミシッと板張りの床が軋む音に顔を上げると、憂いを含んだ慎矢の瞳と目が合った。  何か言おうと思うけど、何も言えなくて。  それは慎矢も同じみたいで、見つめ合ったまま重い沈黙が二人の間に流れたのは、時間にすればほんの一瞬のはずなのに、随分長いように感じる。 「元気にしてたのか?」  聞き逃しそうなくらい小さな声だけど、先に口を開いたのは慎矢の方だった。 「……うん」 「学校辞めるって、噂になってるけど本当なのか?」 「……うん」  そこでまた、会話が途切れる。  慎矢もまた、僕と同じで、もう自分には関係のない事ばかりが頭に浮かぶのだろう。  なのに、ミシッと床の軋む音を立たせて、慎矢は一歩僕に近付いてくる。  そっと伸ばされた慎矢の指先が頬を掠めて、僕は思わず俯いてしまった。  ――もう……僕に触れないで。  慎矢は行き場を失った手で軽く拳を握り、ぎこちなく下へ下ろした。 「伊織、この間は、ごめん」 「……なんで謝るの。慎矢は何もしてないじゃない」  優しくされたら、僕はまた甘えてしまうよ。  慎矢は、僕なんかと関わらない方がいいんだから! 「……あの時は気が動転してしまったけど、伊織のこと、信じてるから……」  そんなことを言われたら……その手に縋ってしまいそうになる。  だけどその時、玄関の引き戸がカラカラと開く音に、「だから……」と続けようとしていた慎矢の言葉は途切れてしまった。  小さく弾かれるように、お互い近付いていた距離を開けて、玄関へ視線を向けた。 「……あ……」  玄関に立っているその人は、長い旅をしていたとは思えない程、簡単な荷物を上り框に置くと、僕に優しく微笑みかける。 「ただいま、伊織」

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