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―― 陽炎(45)
その瞬間、周りの景色が全部消えていく。
家の壁も、廊下も、玄関も、慎矢も……。
全部、真っ白に塗られていく。
この空間には、僕とその人の二人だけしかいない。
逢いたくて、抱き締められたくて、ずっと待っていたその人しか、もう見えなくてなっていて……
「――父さん!」
僕は吸い寄せられるように駆け出して、裸足のまま玄関のたたきに下りて父さんの胸に飛び込んでいた。
外から帰ったばかりの父さんの腕の中は、少し汗の匂いがする。 三カ月ぶりの父さんの温もりと匂いだ……。
背中に回された手が、しっかりと僕を抱き締めてくれて、僕もしっかりと父さんの首に縋り付いていた。
「おかえりなさい、父さん……逢いたかった………逢いたかった……」
まるで子供のように、溢れる涙を止めることも忘れて、逢いたかったと繰り返し、宥めるように背中を優しく撫でてくれる腕の中で、僕は全部を委ねるように身体の力を弛ませていった。
「……君が、慎矢君か?」
他の事を考えられなくなっていた僕は、父さんの言った言葉をボンヤリと聞いていた。
――どうして、父さんが慎矢の名前を知ってるんだろう……。
「伊織と仲良くしてくれているそうだね、ありがとう」
「いえ、俺の方こそ……留守中に泊まらせてもらったりしていて……」
慎矢の声に、僕は漸くゆっくりと現実に引き戻されていく。
父さんに抱き締められたまま、肩越しに振り返ると、さっきと変わらない位置で慎矢は立ち竦んでいた。
「そう……家に泊まるくらい、仲良くしてくれていたんだね」
その声は、何かを含むように低く響いて、その何かに漠然とした恐さを感じた瞬間、父さんの指に顎を捕られ、軽い音を立たせて、触れるだけのキスをされた。
「……ッ……」
不意に背中を撫でていた手が脇腹を滑り、腰へと下りていく。
父さんの手の動きと、それをじっと見つめる視線。
――慎矢に見られているのに……。
なのに、身体の奥に火が灯るのを感じてしまう。その事を慎矢に気付かれたくなかった。
恐る恐る慎矢に視線を向けてみると、彼の表情が、分かりやすいくらいに変わっていく。
「……あ、あの……俺……帰ります」
僕に目を合わさずに、居た堪れなさそうにそう言って、慎矢は焦りながら、ひっかけるようにして靴を履いた。
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