194 / 330
―― 陽炎(46)
「何か用事でもあるのかな。ゆっくりしてくれて良いんだよ」
慌てて玄関の戸を開けようとしている慎矢に、父さんが声をかけた。だけど慎矢は引き戸に手を掛けたまま、此方を見ようともしない。
「いえ……置きっ放しにしていた荷物を取りに来ただけですから」
「そう……またいつでも遊びにおいで」
「……失礼します」
慎矢は引き戸を開けて外に出ると、一旦こちらを振り向いて、僕に一瞬だけ視線をくれる。
「……元気で」
(あ……)
『元気で……』その言葉に、ひとことも返す間も無く、慎矢は軽く頭を下げて、引き戸を閉めてしまう。
磨りガラスに映る慎矢の影が、足音と共に遠ざかって、見えなくなっていく。
―― 行ってしまう。
『……信じてるから。……だから……』……その後に続く筈だった言葉を、まだ最後まで聞いてないのに。
元気で、って、それは、さよならって意味。もう、逢わないってことなんだ。
「――慎矢!」
こうなる事を……慎矢が僕から離れていく事を、自分が望んだはずなのに。
僕は、慎矢を追いかけようと、父さんの手から離れて、引き戸に手を掛けようとした。 ――だって、『……だから』の続きを、まだ聞いてない。
「何処へ行く」
だけど、後ろから父さんに肩を掴まれて、引き止められた。
「……慎矢に……」
「彼を追いかけて、いったい何を言うつもりなんだ?」
「父さん……」
振り返ると、何もかも見透かしたような鋭い瞳で見つめられる。
「さっきの彼の表情を見たんなら、伊織にも分かるだろう? 彼はもう、私達が普通の親子の関係じゃないと知ってしまったのに、今更、彼に何を求めるつもりなんだ」
「…… う……」
父さんの言う通りだ。 慎矢は、知ってしまったんだ、僕が父親を愛していると。 さっきの、慎矢の分かりやすいくらいの表情が頭を過れば、もう追いかけることなんてできなかった。
同性愛は認めることができても、慎矢にとって親子というのは、きっと受け入れられない禁忌だ。
だけど……慎矢が僕から離れる方が良いって、今でも思っているのに、この喪失感は何なんだろう。 もう会えない、もうあの日々は戻らないと思うと、寂しくて哀しくて胸が締め付けられる。
引き止める父さんの手から逃れて、僕は二階に駆け上がった。
二階からなら、もしかしたらまだ…… 間に合うかもしれない。
だからって、どうすればいいのか分からないけれど…… ただ、そこに居て欲しいと願いながら、僕は自分の部屋の窓を開けた。
――慎矢……!
ともだちにシェアしよう!