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 ―― 希望(9)

「沙織には嫌われているとずっと思っていたんだけど、でも沙織はこうして君を生んで育ててくれた。僕達のあの日々は嘘でも幻でもなくて、本当に愛し合ってそれで生まれた命なんだと思えたんだ」  ――だから本当に、嬉しかったんだよ。と、遠くを見ていた視線を僕へと戻して、幸福そうに微笑んだ。 「ふーん、僕には貴方の気持ちなんて、よく分からないけど。でも母さんは、貴方じゃなくて父さんと生きていくことを選んだから幸せだったんだ」  この人は、気にならないんだろうか、好きな人が自分以外の人と幸せに暮らしていたことを。たとえこの人が実の父親だとしても、母さんは僕を父さんの子供として産んでくれたのに。 「父さんと母さんと僕、三人で幸せに暮らしていたんだ。今も三人で家族なんだ。だからもう貴方の出る幕なんてないよ」  僕は、彼に視線を合わせて、強い口調で言葉を投げつけた。それなのにこの人は、優しい声でそうだねと言って僕に微笑みかけてくる。 (変なやつ……)  なんとなく決まりが悪くて顔を背けても、彼は優しい声音で言葉を続ける。 「前に会った時、君が鈴宮さんをとても慕っているところを目にして、鈴宮さんが本当に君を自分の子供として育ててくれていることも分かった。だから、無理に僕が割って入るようなことは、しようとは思わないよ」  その言葉に、僕は思わず視線を彼に戻した。 「じゃあ、もう僕のことは諦めてくれるの」 「できたら時々は、こうしておじさんの話に付き合ってもらえると嬉しいんだけど」 「なぜ? 僕は貴方とする話なんて何もない」 「ねえ、伊織くん。僕達は友達にはなれないかな。家族にはなれないけど、君の相談相手くらいには……いや、おじさんの相談相手になってほしいんだけど」  おじさんの相談相手って言葉にちょっと口元が緩みそうになったけど。  ――友達なんて……。  一瞬、最後に見た慎矢の顔が浮かんで消えていく。  友達なんて、そんな不確かな関係でもいいと言うのなら。 「別に、構わないけど」  喜ばせようと思って言った訳でもなくて、本当にどうでもよくてそう言ったのに、その人は飛び上がらんばかりに喜んだ。 「本当に?」  そう言って、嬉しそうに顔を覗き込んでくるのが鬱陶しくて、適当に「うん」と、頷いてやっただけなのに、彼はギュッと僕を抱きしめた。 「ああー、良かった。今日、君に会えて本当に良かった」  ――あぁ、本当に鬱陶しい……。 「……ちょっと……離してください」 「あ? ああ、ごめん。つい、嬉しかったものだから」  そう言って、漸く身体を離してくれた。 「ありがとう、今日は話ができて本当に良かったよ。沙織は、確かに幸せだったということも分かったし」 「母さんが? 当たり前じゃないですか」 「別れてから一度も逢ってなかったからね。だから、沙織が亡くなった事も人伝てに聞いたんだけど、最初は自殺だったと間違って伝わってきたから……」 「え?」 「ああ、いや、僕に伝わるまでに何人も介したから間違って伝わったんだ。沙織は交通事故だったと鈴宮さんにも確かめたよ」  ――当たり前だ。母さんが…自殺なんてあり得ない。  でも……僕は母さんが死んだ日のことをよく憶えていないんだ。  あの日は確か、僕は学校に行っていて、朝から降り続いていた雨で昼過ぎから警報が出ていた。  母さんは、そんな雨の中自分で運転していて、それで……どこで事故に遭ったんだっけ。  小学校に僕を迎えに来てくれたのは、誰だったっけ。 「――ここで何をしているんだ」  考え込んでいた僕は、突然聞こえたその声にハッとして顔をあげた。 「……父さん」

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