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 ―― 希望(10)

 考え込んでいて、父さんがこの階段を上がって来ていることに全く気付かなかった。  冷ややかに僕を見下ろす瞳が、今度は僕の隣に居る人に向けられた。 「鈴宮さん、お久しぶりです」  立ち上がり、会釈をするその人に、父さんは低くて怒気を帯びた声で、 「伊織には、勝手に会わないという約束ではなかったですか?」とだけ返す。  高い位置にある太陽に、流れてくる雲がかかり、陽射しが遮られて足元に影を落とした短い時間――さっきまであんなに暑かったのに、冷んやりとした空気が流れた気がした。 「あ、いえ……これは……」  少し慌てた様子でそう言いかけたその人は、僕と父さんを窺うように交互に見つめ、改めて父さんに向き直った。そして、今度はしっかりと落ち着いた声で言葉を続ける。 「お宅に伺おうとしていて……伊織くんには偶然ここで会っただけなんです」  だけど、父さんはその人に視線を残しながら、 「伊織、帰るぞ」  と、それだけ言うと、彼の横を通り過ぎ、階段を上がっていく。 「――父さん、待って……」  僕はどうして良いのか分からずに慌てて立ち上がり、父さんの後に続いた。  もう、その人のことを気に留める余裕すらなくなっていた。 「待ってください、鈴宮さん! 今日はあなたと話がしたくて来たのです」  後ろから引き止める声に父さんは一旦立ち止まり、肩越しに振り向いて冷たい眼差しをその人に向けていた。  その視線は僕に向けられたものではないのに、それでも僕の身体は微かに震えてしまう。  父さんの、こんな時の静かな怒りが怖いという事は、僕が一番知っていた。 「伊織が成人するまでは、勝手に会わないでほしいと言ったはずなのに、貴方は約束を破りました。もう、ここには来ないで下さい」 「え? いやでもそれは、さっきも言った通り偶然で……!」  その人はそう言って、一段階段を僕たちの方に上がりかけて、でもピタリと止まる。  父さんの鋭い視線が、その人の動きを制したんだ。 「……分かりました。勝手なことをして、申し訳ありませんでした」  彼はすぐに謝罪の言葉を口にして深々と頭を下げた。だけど下を向いたまま「でも……」と言葉を続ける。そして顔を上げると、父さんの目を真っ直ぐに見つめた。 「また改めて伺わさせて頂きます。伊織くんは僕と会うだけなら良いと言ってくれましたから」  その言葉を聞いた父さんの手が、ぐっと拳を握るのを気付いてしまい、僕は心の奥底からじわじわと湧き上がるような不安を覚えていた。  父さんは、その人の言葉には何も返さずに、また階段を上り始める。僕は、ちらりとその人を一瞥して、すぐに父さんの背中を追った。  最後に見たその人は、優しくにっこりと微笑んで、僕に小さく手を振っていた。

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