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 ―― 希望(23)

 はじめは、誰かお客が来てるのかと思ったんだ。だけど、今、声が聞こえてきたのは寝室。  不審に思いながらドアに近付いて、ノックをしようとした手を途中で止めた。  また、か細い声と、何かが軋む音がしたから。  中から忍びやかに聞こえてくるその声は、言葉ではなくて、それはまるで……。  ――違う……聞き違いだ。  花火の音が、大きくなった気がして、心臓の音がドクドクと煩くて、きっとそれで部屋の中の声がよく聞き取れないんだ。  だって、あり得ないじゃないか。父さんの寝室から女の……喘ぐ声が聞こえてくるなんて。  駄目……覗いちゃ駄目だ。  確かめたりしちゃ駄目だ。  見なくてもいい。そんな筈ないって、ちゃんと分かってるんだから。  それなのに、手は勝手にドアノブに触れて、ゆっくりと音が立たないようにレバーを下げてしまう。  細く開いたドアの隙間にそっと顔を近づけて、僕は静かに唾を飲み込んだ。  何度も何度も、頭の中で自分の声がしていたのに。――覗いちゃ駄目だ――と。  薄い灯りが、父さんの広い背中を暗闇の中で浮かび上がらせているのが見えた。  その背中が動く度に、ベッドの軋む音が耳に届く。  広い背中に回されている、細くて白い手に目眩を覚える。  シーツに広がる長い髪は、いつもは束ねられていた。 「……ん……っ……、ん……っ」  その人の声がくぐもって聞こえるのは、口を塞がれているから? 「……声を出すな。美鈴」  ――ミスズ……と、父さんは女の名前を呼んだ。  ギシギシと軋む音が激しくて、僕は目の前で繰り広げられている光景が信じられなくて……、  ――目が離せない。  可笑しすぎる。身体はこんなに震えているのに、ちゃんと息を殺しているなんて。 「……あっ……ぁ、武志さ、ん……っ」  女の口を塞いでいた手が外されて、控え目に零れた声が、僕の耳に届いてしまう。  ――いや、だ。  そんな風に、父さんの名前を呼ばないで。  父さんの名前を呼んでいいのは、母さんと……母さんの代わりに、父さんに愛される時の僕だけなのに。 「……っ」  短く息を詰めるような声が聞こえて、ベッドの軋む音が徐々に止む。  広い背中がゆっくりと、女の身体の上に落ちていった。  そして、その余韻をゆっくりと愉しむように、まるで愛を確かめ合うように、二人は口づけを交している。  唾液の絡まる音や、唇を啄ばむ音に、胸が締め付けられるような痛みと、喉の奥から上がりそうな嗚咽を堪えて、僕の頭は狂いそうだった。  いや……もっと前から、とっくに僕は狂っている。  そうだ……僕だって、気が狂いそうに愛に飢えて、父さんの代わりに誰かを利用していたじゃないか。  だからきっと父さんも、その人を愛してるわけじゃない。  なのに、聞こえてくる低い声は、僕の考えを否定する。 「美鈴……」  父さんは、またその人の名前を呼んだ。  ミスズ……。  父さんがその人のことを、下の名前で呼ぶところを、僕は今まで一度だって聞いたことがない。 「お前と居ると気持ちが安らぐ」  ――やめて、それ以上は言わないで。  聞いちゃ駄目だ。聞いてしまったら、僕は本当に、おかしくなってしまうかもしれない。  だからやめて……お願いだから。 「……お前は、沙織には似ていないから」  その時、僕の中の何処かで、何かが壊れる音が聞こえた。

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