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―― 希望(34)
「おい、大丈夫か?」
男は僕の傍で床に跪き、顔を近づけて小声で話しかけてきた。
薄く目を開けると、見憶えのある黒いスーツの裾が目に入った。
ここに来た時に、エントランスに立っていた男が着ていた光沢のある安っぽい生地だ。
なんで僕の名前を知っているのだろう。
そういえば、さっきエントランスでチラリと見た時も、何処かで見かけたような顔だと思った。
「おい、立てるか?」
男に上半身を抱き起こされて、また吐き気が込み上げてしまう。
「……ぅ……、っ」
「――わっ、ちょ、待てっ、ここで吐くなよ」
男は慌てたように小声でそう言うと、ふわりと僕の身体を抱き上げた。
焦っているけど物音を立てないように、僕を横抱きにして部屋の外に出ていく。
何故か、安心できる優しい腕だと思った。
男は部屋の間取りを熟知しているようで、迷いなく僕を洗面所に連れて行ってくれた。
入ってすぐに男が点けた照明に、目が眩む。
床に降ろされて、ふらつく身体を男が後ろから支えてくれていた。
「吐けるだけ、全部吐いちまえ」
もう我慢しきれずに、洗面ボールに顔を埋めて、込み上げてくるものを一気に吐き出した。
出てくるのは、白く濁った液体ばかり。
男は、僕が嘔吐している間も背中摩ってくれている。なんで僕なんかに、こんなに優しくしてくれるんだろう。
「ほら、水飲めよ」
目の前に差し出されたペットボトルに手を伸ばしながら見上げたけれど、天井の照明で逆光になっていて男の顔は良く見えなかった。
「……ありがとう」
僕がそう言うと、男は微かに笑い声を洩らした。
「ありがとう、なんてお前らしくないな」
(――え?)
やっぱり、この男は僕の事を知っている? そして僕もこの男の声を確かに知っていると思った。
「服、取ってきてやるから、ここで待ってろよ」
そう言って男は立ち上がり、素早く洗面所を出ていく。
僕は床にペタリと座り込んだまま、何処かで見た記憶のあるその後ろ姿を見送りながら、男の声を頭の中でリピートした。
確かに、僕はあの声を知っている。
きっと、ちゃんと顔を見ることが出来れば思い出す筈だと、ぼんやりした頭で考えていた。
瞼が重くてもう開けていられない。でも目を閉じると深い闇に引きずり込まれるような気がして怖くてそれも出来ない。
――最悪な気分だった。
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