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―― 希望(35)
(……寒い)
身体は冷え切っていて、夏だというのに異常に寒くて歯の根が合わない。でも、喉はカラカラに乾いていたから、男に貰った水は全部飲み干した。
独りでいると、どうしようもなく喪失感に襲われる。
待っていてくれる人もいない。愛する人もいない。僕を求めてくれる人はどこにもいないんだ。
何も身に付けていない自分の身体をぼんやりと眺めていると、寂しくて堪らなくなってくる。
僕には何も無い。
本当に何も無いんだ。
自分は本当に独りなんだと実感すると、底のない闇に堕ちていくような気がして怖い。
怖くて怖くて、堪らない。
ガタガタと震える身体を丸めて、抱えた膝に額を押し付けた。
身体の中から水分が全部失くなるんじゃないかと思うほど、後から後から涙が溢れて止まらない。
人肌が恋しい。あの瞬間だけは自分は独りじゃないと感じることができた。
……そうだ、ここには凌がいる。凌なら、僕の欲しいものを全て与えてくれる。
さっき感じた、身体の全てが誰かと同化したような、あの感覚をもう一度味わいたい。
何も考えなくても良いあの世界に、ずっと浸っていたい。
「――おい、どうした? 大丈夫か」
音も立てずに戻ってきた男に、不意に声をかけられたものだから、驚いて身体がビクンと跳ねた。そして、そのまま震えが止まらなくなってしまう。
この震えは寒さからじゃない。酷く心臓が早鐘を打ち、何か恐怖に怯えている時みたいな。花火や雷の音に震えた時みたいな。
「寒いか? 服持ってきてやったから、ほら着ろよ」
ガタガタと震えている僕の肩に、男はシャツを羽織らせてくれた。
「……悪いな……。気持ち悪いだろうけど、シャワーなんて浴びてる暇は無いんだ」
確かに、身体のあちこちに誰のものか分からない体液が付着していてベタベタしている。だけど今は、そんな事全然気にならなかった。
それよりも……。
「……何処かに行くの?」
焦った様子で僕のシャツのボタンを嵌めていく、男の節くれ立った指をボンヤリ眺めながら質問した。
「何処って……逃がしてやるって言ってんだよ」
(逃げる? どうして? 僕は此処に居たいのに……)
「……凌は?」
「だから……、凌さんが起きる前に逃げるんだよ。おい、分かってる?」
凌が起きる前に、此処から逃げる?
(そんなの……そんなの……イヤだ!)
「い、嫌だ――ッ」
喉が痛くて掠れていたけど、ありったけの声で訴えようとした僕の口を男は咄嗟に手のひらで押さえた。
「――シッ、馬鹿っ! 大きな声出すなって」
「――ッ――ん――っ」
いきなり口を塞がれた事で、頭の中がパニックになる。
男の手から逃れようと、動かない身体を無理に捩って暴れる僕に、男は落ち着いた声で、まるで子供に言い聞かせるように耳元で囁いた。
「大丈夫だから暴れるな。ちゃんと俺を見ろって」
それから、「……伊織」と、僕の名前を呼ぶ。
その懐かしく感じる声に、僕は漸く顔を上げて男の瞳に視線を合わせた。
「……あ……」
いつも苛々して気が短いくせに、時々こんな優しい瞳で僕を見つめていた男。
僕と目が合うと、男は溜め息をひとつ吐いて、ニヤリと笑う。
男の息が顔にかかり、あの嫌いだった匂いに、僕は顔をしかめた。
「……煙草臭い」
記憶が繋がって、鮮明に蘇る。
あの夏祭りの夜、神社で僕を陵辱したこの男と、ほんの一カ月の間一緒に過ごしたあの日々が。
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