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―― 希望(36)
もう二度と会いたくないと、憎んでいたはずの男。この男と出会った事で、僕の生活は大きく変わっていったのに。
卑怯で、乱暴で、口汚くて、いつも煙草臭くて、嫌いなところばかりだったのに。
愛なんてどこにもなくて、ただ、どうしようもなく寂しい心と身体を埋める為だけに、何度も肌を重ねた。
その行為が、いつしかまるで恋人同士のそれのように錯覚していた。――ただの、父さんの代わりだったのに。
「……あ……は……はは……なんでアンタ、こんな所にいるの」
「何、笑ってんだよ。俺だって、お前とこんな所で会うなんて思わなかったんだからな」
男は喋りながらも、手早く僕に服を着せていく。
「だって……、可笑しい……。アンタと、また夏祭りの夜に再会するなんて……」
花火が嫌いなのは、この男のせい。
たくさんいた友達を失ったのも、この男のせい。
「ねえ、僕達って、もしかして赤い糸で繋がっているんじゃない?」
なんでだろ……可笑しくて笑いが止まらない。
「おい、静かにしろって。お前、もしかしてまだ抜けてねえの?」
男はそう言って、僕の頬を両手で包んで目を覗き込んでくる。
――ぬける? ……何が?
「何回、キメたんだ?」
男の言ってる意味が分からなくて、「さあ……?」とだけ応えると、男は大きな溜め息を吐いた。
「頭はハッキリしてるか? 俺が誰だか分かってるよな?」
「……分かってるよ」
「そうか、とにかく行こう。ここで再会を喜んでる暇ねえんだ」
男はそう言って、僕の身体を軽々と抱き上げた。
「……や、嫌だ。凌と離れるのは嫌だ」
此処を出たら行く所なんてない。
凌と離れたら、僕は生きていけない。
言い様のない不安が押し寄せてきて、僕は必死に男の腕から逃れようともがいた。
「馬鹿! お前、こんなボロボロにされてんのに、まだ分かんねえの? このまま此処に居たら壊れちまうぞ」
どうして男が僕を何処かに連れて行こうとするのか理解出来なくて、ただ凌と離れる事が不安で仕方なくて、
「イヤ、だ、降ろして!」
気が付けば、泣きながら男の胸を必死に叩いていた。
「ああ、もう、煩い!」
突然、キスで唇を塞がれて、咥内に男の舌がするりと挿し込まれた。
煙草のヤニ臭くて、すごく不快なのに、不思議と気持ちが落ち着いていく。
キスは咥内をひと撫でしただけの短いもので、唇は直ぐに解かれた。男は至近距離でじっと僕を見つめ、そして低い声で囁く。
「静かにしてろ」
その瞳があまりにも真剣だったから、僕は思わず首を縦に振ってしまった。
「ちっ……、まさかオーバードースじゃないだろな」
男は独り言を呟きながら、洗面所から廊下を窺うように覗き、それから僕を抱いたまま玄関へ向かう。
「お前の靴、これか?」
玄関には、もう僕のと、たぶん凌の靴の二足しか無い。
これか? と、指をさした男に頷けば、彼はその靴を掴んで僕を抱え直すと、音が立たないようにそっと玄関のドアを開け、スルリと外へ出た。
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